新内節散歩 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
・富士松松栄太夫「新内節散歩 曲別解説」(新宿書房)は 新刊ではない。最近読んだ新刊で書けさうな書がないので本書である。本書は2002年に出てゐる。これ以後に新内に関する書が出たかどうか。大体、所謂純邦楽といふもの、CDを探しても新しいのはほとんど無い。今は昔の名人の類が多い。新内関連の書だと岡本文弥以外にないやうな気がする。あつてもほとんど 知られてゐないのであらう。しかも芸談の類が多い。芸談といふのは分かつてゐる人には実にありがたいものであるが、分かつてゐない人間にはそれこそちんぷ んかんぷん、何のことやら分からない。それでもと思つて読んでみても、やつぱり分からない。ところが本書は違ふ。分かり易い。「本書は、今までにない特色を備えています。それは先ず聴く人の立場で書かれていることです。鑑賞ガイドのような本はありますが、本書は、歌詞と内容を説明しながら、どのやうに聴いたら面白いのか、という立場です。」(竹内道敬「新内ひとすじ」2頁)そして「ご自身で個々の浄瑠璃のゆかりの地を実地に歩いておられる点」(同前)もあ る。つまり、所謂芸談とは縁遠いらしい。帯に「『何を語ってゐるのか分からない』に答えます。」とある。何をかたつてゐるのか分かつてゐても、その具体的に意味するところが分からない。分からないとはかういふことであらうといふわけである。それをそのままにしておくのが所謂鑑賞ガイドであるなら、本書はそれをそのままにしておかないのである。字句等の説明をし、節の説明もする。確かにかういふのはほとんどないであらう。もちろん用語の解説もある。例へば所 謂心中物の最初は廓の解説、これが詳しい。遊女の手練手管は口説や心中だてがあり、それで万策尽きれば「『一緒に死のう』と言い出した」(89頁)とか。 つまり心中物は万策尽きての物語であつた。 ・とはいふものの、分からないこともある。本書には「聴く人のために」といふのが各章の最後についてゐる。例へば「明烏」浦里部屋の段の口説きの初めにかうある。「上品で綺麗に、たっぷりと感極まる風情の語り口を味わいたい。」(98頁)分かるやうな分からないやうな感じである。聴けば「感極まる風情の語り口」を感じることができるかもしれない。やはり本書は実際の音源があるといふ、そしてある程度新内が分かってゐる人が前提になつてゐるのであらう。更に 進むと、「クドキカカリであるが(中略)〽︎取りついて』からは浦里のクドキであることを注意して聴きわけたい。」(100頁)とある。クドキカカリとク ドキの違ひは何かの説明がない。たぶんクドキの初めがクドキカカリであらうと想像する。次いで下の巻、浦里雪責めの場、亭主の後の場面、「ここは何といっても三下がりのメリヤスである。」(106頁)このメリヤスは分かる。長唄のメリヤスである。これに「太夫にとっては高いキーの連続で、あげくに浦里のク ドキにつなげなくてはならず云々」あたりからまた分かつたやうなである。最後になると、「アゲ節まで聴き終わったとき、まるで『見し夢は覚めて跡なく 明烏 のちの噂や残るらん』の如く、夢から覚めたやうなムードが期待できる。」(109~110頁)とある。これでは知らない人間は更に分からなくなりさうである。この次に「蘭蝶」があるがこれも似たやうなもの、この「聴く人のために」書いたはずのところが、新内をよく知らない人間には却つて分からなくなり さうな気がする。本書は2002年刊、CDをつけるといふ発想はなかったのであらうか。ここは是非ともCDがほしいところであつた。この点を除けば、本書は確かに分かりやすい内容であつた。
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