白洲正子全集(第12巻) の商品レビュー
先日読んだ佐多稲子の「夏の栞」に洲之内徹が出てきたような気がして、ざっと思い当たるところを読み返して見たのだが見つからない。ネットで中野重治との関係を調べると、二人は同時期に左翼活動で摘発されているのだった。洲之内徹という人物に興味が湧いた。
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『老木の花』(1989年、求龍堂)、『遊鬼―わが師わが友』(1989年、新潮社)、『いまなぜ青山二郎なのか』(1991年、新潮社)の三作品と、NHKラジオ『こころをよむ』のテキストから「世阿弥を語る」を収録しています。 『遊鬼―わが師わが友』は、青山二郎、小林秀雄、吉田健一、洲...
『老木の花』(1989年、求龍堂)、『遊鬼―わが師わが友』(1989年、新潮社)、『いまなぜ青山二郎なのか』(1991年、新潮社)の三作品と、NHKラジオ『こころをよむ』のテキストから「世阿弥を語る」を収録しています。 『遊鬼―わが師わが友』は、青山二郎、小林秀雄、吉田健一、洲之内徹、梅原龍三郎、そして白洲次郎といった、著者が交流を持った作家や芸術家たちに関する文章がまとめられています。その多くは、追悼文として発表された文章です。骨董を通じた付き合いから小林秀雄の批評眼の本質に迫るエッセイは、とりわけおもしろく読みました。著者は、小林が「当麻」のなかに記した「美しい〈花〉がある、〈花〉の美しさという様なものはない」ということばに、「美しいものは沈黙を強いる」という骨董を通して得た洞察と通じるものを見ています。また、「無常という事」のなかにある、「僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が」ということばに、「買った!」という叫びにおける骨董との出会いを聞き取っています。こうした著者の小林理解には興味をおぼえるのですが、その一方で、小林秀雄という批評家の本質に彼の残したテクストの外から迫るというアプローチがこれほど説得力を示しているという事実は、彼の批評にひそむ問題をなにほどか示しているのではないかという気がします。 『いまなぜ青山二郎なのか』は、稀代のエピキュリアンとしての青山のさまざまなエピソードが紹介されていて、とても興味深く読みました。それでもなお、青山という人物に直接触れた人でなければ近づくことのできないような何かがあるという印象を受けます。晩年の青山が生活していたホテルの部屋に、骨董と呼べないほどのガラクタが足の踏み場もないほど並んでおり、しかもその一つ一つに「承知」という貼り紙がしてあったというエピソードが紹介されていますが、骨董に限りない愛着を覚えながら、骨董に呑まれてしまうことのない青山という人物のスケールを垣間見たような気がしました。
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