明代中国の軍制と政治 の商品レビュー
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衛所の活動とその運営 海防活動…民の海防は沿海衛をその中心とし、水寨等を前進基地として担った。沿海衛は概ね戌軍三屯軍七の比率で構成され、軍船・輸送船等の各種船も軍儲にて賄われた。 親征軍…英宗の親征軍は、京営を中心に編成されたが、本来班軍番上軍を担わない衛所軍の参加も見られることから、事前に周到なる準備の下行われたことが看守される。 班軍番上制…衛所軍は当初、屯田軍・守城軍・漕運軍で構成されていた所を、宣徳期に春秋にそれぞれ交代で京師へ上る班軍番上軍が追加された。当初は各軍の寄せ集めだったが、于謙により固定化した軍種として練度の向上維持が図られた。 班軍番戌制…辺境防備の班軍番戌軍は、班軍番上軍の下班にて担われたが、弘治期には独立化し辺境地元の衛所が担うこととなり、班軍番上軍と班軍番戌軍の住み分けがなされた。 衛所の世襲制度とその運用 永楽帝は靖難の役で活躍した旧燕王軍勢の衛所官を新官として優遇し、旧官と区別しその優遇制度は明末まで遵守された。その優遇とは、優給終了十五歳襲職十六歳という一年の優遇や任官時の比試免除であった。ただ比試免除は嘉靖期以前より実効を失っていた。 英宗回鑾 土木の変で英宗が捕らえられた後に践祚した景泰帝とそのブレーンである于謙は、自らの権力を維持するために英宗の回鑾には消極的だった。一方エセンは積極的に帰還を求めている(一方で戦闘略奪行為は継続している)。身代金は銀換算で1700両であり、後の王直の懸賞金1万両と比べても、銀の対米価が2倍強になっていることを加味してもかなり低額である。エセンからの申入れや現地明将の上奏に対して、景泰帝は蒙古は詐謀多きことを理由にのらりくらりとした対応をしている。しかし、交渉の中で景泰帝が英宗の帰還を望んでいるというポーズの外交文書を発給したことから、それが既定路線として明現場とエセンの間で解釈され、結局英宗の回鑾は実現することとなった。
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