吹けよあれよ風よあらしよ の商品レビュー
115年前の1895年1月21日に福岡県で生まれた伊藤野枝は、大杉栄とともに捕えられ1923年9月16日わずか28歳で虐殺されました。 彼女の悲惨すぎる悲劇的な生涯は、瀬戸内寂聴によって『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』に描かれていますが、これを読んで瀬戸内晴美がなまじっか...
115年前の1895年1月21日に福岡県で生まれた伊藤野枝は、大杉栄とともに捕えられ1923年9月16日わずか28歳で虐殺されました。 彼女の悲惨すぎる悲劇的な生涯は、瀬戸内寂聴によって『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』に描かれていますが、これを読んで瀬戸内晴美がなまじっかな小説家ではなく只者ではないことを中学生のころ感じました。 私はかつて、1912年に17歳で上野高女を卒業後に自立した女性を目指して平塚らいてうの主宰する「青鞜」へ飛び込んだ彼女が、アメリカでアナキズムの機関紙「母なる大地」を創刊したエマ・ゴールドマンの『女性解放の悲劇』を掲載したものをいち早く入手して、1914年19歳のとき『婦人解放の悲劇』として翻訳・刊行したことを、その俊敏な反応、大正時代にあってその世界的な同時代性・即応性にびっくりしたことがありました。 親が決めた結婚相手から嫁いで八日目に逃げ出して、女学校の十歳年上の英語の先生の、後に放浪の末に餓死する辻潤と同棲し結婚して二人の子をもうけ、そして四年後には運命的に大杉栄と出会う。 「野枝さんは十八で上野女学校の五年生だったが、僕は十ちがいの二十八でその前からそこで英語の先生に雇われていた。野枝さんは学生として模範的じゃなかった。だから成績も中位で、学校で教えることなどは全体頭から軽蔑しているらしかった。それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかったようだった。 僕を女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持っていたN君と僕とは、しかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服していたものであった。もし僕が野枝さんに惚れたとしたら、彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであった」 辻潤「ふもれすく」 伊藤野枝は、普通の人ではとてもできないような自分の思うままに正直に素直に一途に生きた情熱的な女性でした。そのためには障害となるどんなことにも、たとえ非常識・不健全・不道徳・非倫理的といわれようと、他人の夫も奪うし自分の子供も捨てました。たしかにわがままで高慢で横柄でしたが、彼女は女性の自由と権利を獲得する先駆をなしたのでした。
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