イベント創造の時代 の商品レビュー
野田邦弘の著作を読む。文化創造をしていくためのアートマネージメントとは、どういうことなのかを知りたかったからである。 著者はいう。『「文化」と「行政」の出会いは、原理を異にする二つの次元が衝突することであり、従って、文化を行政が事業化する際には、さまざまな摩擦を生むことになる。...
野田邦弘の著作を読む。文化創造をしていくためのアートマネージメントとは、どういうことなのかを知りたかったからである。 著者はいう。『「文化」と「行政」の出会いは、原理を異にする二つの次元が衝突することであり、従って、文化を行政が事業化する際には、さまざまな摩擦を生むことになる。この摩擦を、創造のエネルギーへと転化するのが、職員の企画力なのである』 この本を読みながら、文化事業は、今までにないことをつくって初めて成り立つものと感じた。 著者は、摩擦があることを想定しながら、それをどう突破するかということに、半端ない努力をしている。多分、市役所の中では、評価は随分と分かれるだろう。でも、出過ぎた釘は打ちにくいという言葉が浮かんだ。あくまでも、市民のための、市民が主体的に行う文化事業にするために必要なことだからだ。 1990年代に文化芸術を行政として取り組む必要に迫られた。 1990年代に、芸術文化活動に600億円の助成があった。1990年、芸術文化振興基金の創設。企業メセナ協議会設立。1994年、財団法人「地域創造」。1995年、文化政策推進会議『新しい文化国家をめざして』。1996年、アーツプラン21の事業化。1997年、新国立劇場が開館。 1998年には、公立文化ホールは、1332館も作られ、自治体の予算が、8483億円となった。 行政が、文化を重視した経緯の中で、行政の文化事業とはどうあるべきなのかを問いながら推進していく。著者は、生涯学習講座を担当することから、演劇公演、コンサート、舞台芸術、フェスティバルへの活動の分野を広げていく。その中での衝突や摩擦について、起こったことを述べている。 結局は、自治体行政が、タテワリであり、そこにあるルールに縛られていることを、理解を得ながら変えていく交渉が、重要な仕事と言える。 1980年に文化事業課に配属され、生涯学習、成人学校の企画運営を担当する。年間90教室、1教室7回の講座を運営していく。その中で、オリジナルな講座を作り上げる。企画運営(内容、水準、教材、教授法、運営法など)と適切な人選。主要な対象を特定して、そのニーズに合致した企画を作り上げていく。講座のネーミングが大切。常に今の時代と市民が求めているものを把握しながら、その問題意識を発展させ、それを実現する人的ネットワーク作り。マーケティングリサーチ、プランニング、プレゼンテーション、ネゴシエーション、コミュニケーション、そして実行能力が要求される。 講座といえども、「旬」「タイミング」「機会」「偶然の出会いと発展」がある。 そういう中で、「市民自身が主体的に参加する」ことを促していく。そして文化事業の継続性を確保していく。 講座が、映画つきとなり、講座から新しい文化創造のグループが誕生していく。 ポスターの言葉がいい。「優しいブンカの狂気たらん」「ヨコハマが光熱にうなされる」 文化事業を進める熱意と行動力が要求される。こりゃ、情熱がないとできない仕事だ。 そして、著者はいう「行政の経営資源間の連携」を構築して、総合力を発揮していくコーディネイト能力』が求められる。この「行政の経営資源」の活用という考え方が必要だ。それが全てに貫かれていく。横浜市教育文化センターから、どんどんとはみ出していく。実行員会方式の演劇を公園で行おうとする。公園で演劇をすることは、公共性のない営利事業でダメだと言われる。それでも、屋外、非劇場空間に演じさせる。それが、横浜パフォーマンスフェスティバルとなっていく。 また、横浜は、ジャズの発祥地。そして、はみ出し演劇とパフォーマンス、ダンス。 教えるより学ぶ。学習ー創造ー表現ー批評ー学習のサイクルを作り上げていく。 学習はチャージ(充電)であり、文化はディスチャージ(放電)という。 市民が、充電から放電に発展させていく。 ある意味では、今まであった境界を打ち破ることで成り立っていく。 「アーティストや市民の文化活動を抑制している行政の各種規制」をいかに取り払っていくのかが、仕事なのだ。 「芸術の衝撃波を横浜から世界へ発信する」 著者はいう。「文化事業ではなく、総合的な都市政策として位置づける」ことなのだ。 ふーむ。読みながら、摩擦を楽しみ、創造する前傾姿勢の歩みに、頼もしさを感じた。 まさに「イベント創造の時代」になってきている。コロナ禍であるからこそ、必要だ。
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