森鴎外と近代日本 の商品レビュー
森鷗外は、分かり難い。 分かり難い、という意味は、文章ということではなく(文章も擬古文を使うこともあり難しいところがあるが)、その内容の持つ意味を考える、という観点だ。 言い方を変えると、読者が色々な解釈をすることができる。 鴎外の作品の中にある思想小説、哲学小説はもとより、短編...
森鷗外は、分かり難い。 分かり難い、という意味は、文章ということではなく(文章も擬古文を使うこともあり難しいところがあるが)、その内容の持つ意味を考える、という観点だ。 言い方を変えると、読者が色々な解釈をすることができる。 鴎外の作品の中にある思想小説、哲学小説はもとより、短編歴史小説の何気ないストーリーの中にも、深い意味が隠されているのではないかと思うことがある。 これが自分が森鷗外が好きな理由のひとつなのだが、鷗外が潜ませる意図の根幹が「近代化」だと感じており、本著はまさにその問題意識に合致したもので、大変興味深く読むことができた。 鷗外の特殊な立場、詰まり、、個を重視する近代化を熟知した知識人、且つ権力側にも身を置いていたというユニークな立場だからこそ、このような独特な作風を産み出すことができるのだろう。 鷗外のような近代知識人の意識の中での葛藤、その問題意識を理解することで、近代日本の置かれた立場、課題が見えてくるところが興味深い。
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小倉への左遷は文学をやめさせたかったから? 遺言書の言い方がきついわけは? 鴎外の人生、その作品を、精緻な解釈を挿みながら、読者の興味をそらさず、系譜的に、時系列的に追っていく手つきは、まさに鴎外の「人間除実小説」の手法のよう。 ハルトマンから受けついだ真・善・美の予定調和の、「かのように」の美学が挫折し、その後「利他的個人主義」という矛盾した二つの性質を一人の人間にうまく共存させた教養小説を完成させることができなかったため、「人間除実小説」としてのノンフィクションに向った、鴎外の文士人生がとても論理的に体系づけられていました。 そして、最終章で、鴎外の近代観の特異性を論じるくだりは、圧巻。 同時代の知識人が産業革命ーフランス革命を中心とした近代観しか持ちあわせていなかったのに対し、鴎外は、近代を両方向的なものとして捉えていました。 それは「潦休録」からも読みとれる通り、鴎外が19世紀をそれまでの諸芸術様式の破壊の時代として捉えていたことに起因しています。 この形式の構築/破壊という近代の両方向性を理解していたのは、当時の日本にあってほとんど鴎外だけでした。 それは、鴎外が、日本の中にとどまらず、また近代の中にとどまらない、広い世界史的な枠組みで近代日本を捉えていた唯一の作家だったため加納になった、特別なことだったのでした。
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