生は彼方に の商品レビュー
クンデラの代表作の一…
クンデラの代表作の一つです。第二次大戦後のプラハは混乱期、母親に溺愛されていたヤロミールは、体制に抗う画家に影響され、芸術と革命活動に身を挺します。生と死を鋭い感性とアイロニーで描かれてます。
文庫OFF
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※このレビューにはネタバレを含みます
やはりクンデラは面白いなぁ…… 著者視点ので描かれていることで、表現の幅が広がっているというか、例えば登場人物の死を先に描いてしまえるのが物語の構造を面白くしているし、色々な表現が登場人物の知能や性格に依らない(というかクンデラに依っている)ので、至る所にあらわれる詩的表現や格言めいているフレーズにノイズが走らなくて良い。 この作品だけに限らないけれど。 政治的な背景に大きく翻弄されたあとならではのカタルシスが良い 生を追い求めつづけ、それは我々の彼方へと行ってしまった。
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7部構成で、初めは全く異なる話でありそうな書き方であったが、4部あたりから連続になり、6部で詩人の主人公の死が説明された。最後の7部がかなり幻想的になり、主人公の死の状況が母親により描写され、本人の心情と情景か語られる。クンデラのユーモアは猿股にあるのであろうか?
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1990年代、チェコ出身のクンデラは中国に紹介されはじめ、一時的に中国の「文青」の絶賛を博していた。「文青」とは、「文芸青年」の略語で、生活にゆとりが出て、一般大衆とやや異なる趣味や生活志向を求める人たち(良くいえば「深い」、悪くいえば「わざとらしい」人たち)のことを指す。哲学的...
1990年代、チェコ出身のクンデラは中国に紹介されはじめ、一時的に中国の「文青」の絶賛を博していた。「文青」とは、「文芸青年」の略語で、生活にゆとりが出て、一般大衆とやや異なる趣味や生活志向を求める人たち(良くいえば「深い」、悪くいえば「わざとらしい」人たち)のことを指す。哲学的思考、性的場面の描写や分析的な書き方を特徴とするクンデラの文章が、「文青」に愛されるのは想像し難しくない。クンデラの代表作の『存在の耐えられない軽さ』は、ニーチェの虚無主義をめぐる議論を再燃し、「人間は考え、神は笑う」というユダヤ諺も、クンデラの『小説の技法』を通して中国で流行っていた。 私が初めてクンデラのを読んだのは、彼の小説そのものではなく、ある韓国の学者の引用だった。クンデラが「速度」を通して「技術」と「私」の関係を描いた文章であった。 「緩やかさと記憶、速さと忘却のあいだには、ひそかな関係がある。ある男が道を歩いているという、これ以上ないほど平凡な状態を想起してみよう。突然、彼は何かを思い出しそうとするが、思い出せない。その時、彼は機嫌的に足取りを緩める。逆に、経験したばかりの辛い事故を忘れようとするものは、時間的にはまだあまりにも近すぎるものから急いで遠ざかりたいとでもいうように、知らぬ間に歩調を速める。」 ミラン・クンデラ、西永良成訳(1995)『緩やかさ』集英社、p50 韓国の学者はクンデラを引用しながら、韓国社会の変化はなぜそれほど早く、しかも止められなかったかを考えていた。人間は、過去の苦痛を忘れるために、社会の素早い変化を求めようとしたのではないか。逆に、社会変化が早ければ早いほど、そこにいる人間はこれまで自分と離れていくのではないか、と。当時の私はそれを読んで、クンデラを文学と現実の境で踊っている巨人に見えた。 『生は彼方に』は、ある詩人の短い人生を描いたもので、ざっクンデラを感じてもらう一冊である。題名通り、この本における人間は、自分が生きている此方を否定しようとし、「ならなかった自分」や「なったかもしれない自分」という想像こそを「本当の生活」とする、つまりほかの生活を仰ぎ望いで今を過ごしている存在として描かれた。この本の背景には、20世紀におけるチェコスロバキアの社会変動がある。しかしクンデラは、それを「〇〇主義」、「〇〇運動」の名を借りて語っていたわけではない。詩人の一生を通して、個人の運命は、どのように社会、家庭、政治、思想、主義などいった抽象的な言葉に具体的な意味をつけたかを描いた。歴史に対する文学の笑いといえる。 本書を勧めた理由はここにある。開発や国際協力の教科書を開いてみればわかるように、世界に生活している人々は様々な援助・開発アクターに分類され、社会を動かす様々な政治・経済はそこに登場する。こうした大きな物語を聴き慣れていくと、ごく普通な人の微細な現実を感じ取れなくなる(そして、この力の乏しさは、専門家や理論家の、理性が溢れた言説や科学的根拠に編み直された嘘を維持し続けている)。クンデラは、人間が過ごした1秒1秒の中の、あまりにも見逃されやすいキッチュ、矛盾、自己合理化、狡知、不条理をそのまま書き留めた。それは、人間を人間として普通に感じ取るための教材であり、開発を勉強する若者を自らの滑稽な姿を向かわせる力を持っている。 (東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪)
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20年前に購入。過去に4回程読み、ずっといい印象がなく、でも理由は忘れていて再度読んだ。①母親の「妻、親」<「自分、女」にうんざり②すぐ性描写。幼年期は母親の、体ができてくると主人公男子の。そこらの女子とすぐに愛撫し、ちちくり合い、(P269参照)げんなり③あわよくば作者の国の知...
20年前に購入。過去に4回程読み、ずっといい印象がなく、でも理由は忘れていて再度読んだ。①母親の「妻、親」<「自分、女」にうんざり②すぐ性描写。幼年期は母親の、体ができてくると主人公男子の。そこらの女子とすぐに愛撫し、ちちくり合い、(P269参照)げんなり③あわよくば作者の国の知識、風土、小ネタ描写を期待しているのだが、温泉饅頭の皮のような存在。戦争、民族浄化の描写は本当にうっすらしかなく、この辺りは思い出したくもないないんだろう。あと性描写の雰囲気が饅頭を水に濡らした時のような感じでげんなり。饅頭怖い。
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超絶大傑作。クンデラの中でいちばんすき、なぜなのかはよくわからない、たしか主人公が窓から飛び込むシーンがあってそこがとんでもなかった気がする。下見くんから貸してもらったというのもプラスポイントかも。題名もまたすごくいい、フランス語だとLa vie est ailleurs これも...
超絶大傑作。クンデラの中でいちばんすき、なぜなのかはよくわからない、たしか主人公が窓から飛び込むシーンがあってそこがとんでもなかった気がする。下見くんから貸してもらったというのもプラスポイントかも。題名もまたすごくいい、フランス語だとLa vie est ailleurs これもまたとてもいい響き。
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抒情詩人として活動を始めたクンデラ けれども彼はきっぱりその肩書を捨てて 小説家になった 抒情性というものが どうしても嫌いだったみたい。 お箸持ち上げられないくらいの 軽さと重さの問題がここにもある 最もそれは 彼の弱さの象徴として。
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主人公ヤロニールは詩人のくせに マザコンで、 女性に気の利いたこと一つ言えず スマートな立ち振る舞いもできず 細かいことにばかりこだわり 嫉妬深く、 恋人の心を傷つけることでしか愛を実感できないような未熟者で、 皮肉屋気取りの割には権力に迎合し 時には恋人の家族すら警察に売る。 ...
主人公ヤロニールは詩人のくせに マザコンで、 女性に気の利いたこと一つ言えず スマートな立ち振る舞いもできず 細かいことにばかりこだわり 嫉妬深く、 恋人の心を傷つけることでしか愛を実感できないような未熟者で、 皮肉屋気取りの割には権力に迎合し 時には恋人の家族すら警察に売る。 自伝的小説とされているが、 過剰なまでに滑稽な者として主人公を描くのは、 当時の自分(や詩人達)に対する 自己嫌悪の強さの現れなのだろう。 抒情主義の時代(チェコ共産革命≒政治の抒情化)への徹底した批判。 そして、革命や恐怖政治に自らすり寄り 利用された、詩/詩人に対する自虐。 美しく心地よい韻律は、 大衆の冷静な判断を奪い根拠のない熱狂を煽る。 (ワンフレーズポリティクス/ポピュリズム/劇場型政治。 不覚にも感動してしまうえらいええ話のCMを垂れ流す某政党。 最近の日本の政治も・・抒情化が著しい。) 作中様々な詩人や小説家のエピソードが トリビア的にさし込まれているんだけれど、 僕の好きな19世紀フランスの小説家 ジェラール・ド・ネルヴァルも登場するのがなんかうれしい。
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クンデラ一流の、心の襞を大に小に描き上げる技術は細部にまで冴え渡っている。 その上でも、これは特に気に入った。母親の縛りつけの描写の生々しさ、女性たちとの関係、他人からのレッテルがあまりに力を持ちすぎること、若さと死と革命の結びつき、などなど。 また、この小説は部分同士に因果論的...
クンデラ一流の、心の襞を大に小に描き上げる技術は細部にまで冴え渡っている。 その上でも、これは特に気に入った。母親の縛りつけの描写の生々しさ、女性たちとの関係、他人からのレッテルがあまりに力を持ちすぎること、若さと死と革命の結びつき、などなど。 また、この小説は部分同士に因果論的・写実的結びつきが見られるように思う。他の作品が目的論的・構成的な結びつきがされているのと比べて。それもまた気に入ったところ。 手元に置いておきたいような。
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人生にどれほどの自由度があるだろう。自ら選び取ったその道も、時代、社会、文化、遺伝、親の期待・・・それらの刷り込みかもしれない。仕向けられただけかもしれない。 そんなことは断じてない。人生を規定するのは自分であり、自分次第でいか様にも変えることが出来るのだ。自己選択を疑う声は、...
人生にどれほどの自由度があるだろう。自ら選び取ったその道も、時代、社会、文化、遺伝、親の期待・・・それらの刷り込みかもしれない。仕向けられただけかもしれない。 そんなことは断じてない。人生を規定するのは自分であり、自分次第でいか様にも変えることが出来るのだ。自己選択を疑う声は、敗者の遠吠えに過ぎない。 この二項対立がぼくを捉えて久しいけれど、畢竟答えを出しようもなく、突き詰めたところで行き場はない。それを分かっていながらも、相対化して悟り顔で生きることも、割り切って今に没入することも出来ないぼくを、いつまでも掴んで離さない。 クンデラを読んでいて心痛むのは、何とかやり過ごしている上記の問いを喚起されるからに他ならない。主人公を軸とした物語展開も、十分に感傷を刺激するけれど、クンデラに特徴的な第三者による物語への介入、異なるアングルからの言及が、単純な感傷を突き放し、増幅し、底のない空虚に読者をいざなう。 混乱する母国での少年を描く本作品でも、これらの特徴が余すことなく発揮されている。物語のクライマックスの近づく第六章、視点は突然切り替わり、唐突に主人公の結末を告げられる。自分を除く誰もが知っている結末に飛び込む主人公。その構図を自分に当てはめることをどうして避けることが出来るだろう。 人間は自分の外に出ることは出来ない。のみならず、見通せるのは今という観察地点から見える景色だけ。何も見えない人生の彼方には何が待ち受けていて、それに対して一体自分は何が出来るのだろうか。
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