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現代を生きる仏教 の商品レビュー

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2013/06/04

臨済正宗の禅者である著者が、仏教の立場から「生きること」についての考えを語った本。 「まえがき」で著者は、西田幾多郎の哲学と鈴木大拙の禅学を中核にする立場に立つと述べている。その上で、そうした立場から「現代を生きる仏教」を語るとすれば、それは「西田哲学的生き方」とともに語られな...

臨済正宗の禅者である著者が、仏教の立場から「生きること」についての考えを語った本。 「まえがき」で著者は、西田幾多郎の哲学と鈴木大拙の禅学を中核にする立場に立つと述べている。その上で、そうした立場から「現代を生きる仏教」を語るとすれば、それは「西田哲学的生き方」とともに語られなければならないと、著者は言う。 西田哲学は「場所」の立場を説く。私たちは、物理的空間の中で生きるとともに、生物的空間、歴史的空間の中で生きている。だが西田は、それらの根底にある宗教的世界によって私たちが包まれていると考える。こうした宗教的空間が、西田の「絶対無の場所」である。 「絶対無の場所」に立つことは、「自我からものを見ないで、世界からものを見る」ことだ。著者は、山田無文が「僕とはなんですか」と問うた一人の青年に対して次のように語ったエピソードを参照している。「君は今日只今から、自我中心ではなくて、誰か自分でない他人のために一所懸命に生きてみないか。そして自分を勘定に入れないで他人のために一所懸命に生きてみて、〈ああよかった、幸せだった〉というような自分が出てきたら、衲はそれがほんとうの自己だと思うがな」。著者はこうした生き方に、西田の「ものとなって見、ものとなって行なう」というあり方を重ねようとしている。 さらに、こうした「ものとなって見、ものとなって行なう」生き方は、「超個の個」というあり方として説明される。ここで、「超個」と「個」の両者はけっして切り離すことはできないが、だからといって直接的に同一だというのでもない。おそらく著者は、両者が「即非」の関係にあると考えているのだと思われる。それは、それぞれの個があるがままで、他のあらゆる事物と円融しているという、華厳経の「事々無碍法界」の世界である。 著者は、釈尊の根本思想が「縁起の法」だったとする理解を批判して、縁起、つまり「これがあるからあれがある」という理法をはっきりとつかむ「覚」から「四諦の法門」へと進んだところに釈尊の偉大さを見ようとしている。ここにも、縁起によって動いてゆく世界と自己との即非的な関係を見ようとする著者の姿勢が明確に現われ出ているように思う。

Posted byブクログ