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近代の正統性(Ⅱ) の商品レビュー

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2015/12/02

『近代の正統性』第三部の邦訳。「好奇心Neugierde」が古代ギリシャ以来どのように論じられ評価されてきたかを跡づけている。論じられるテーマが一般的であるがゆえに、それと結びつくサブテーマは多岐にわたっているが、一つの読解の指針となるのは天文学に対する評価の変遷であろう。神の領...

『近代の正統性』第三部の邦訳。「好奇心Neugierde」が古代ギリシャ以来どのように論じられ評価されてきたかを跡づけている。論じられるテーマが一般的であるがゆえに、それと結びつくサブテーマは多岐にわたっているが、一つの読解の指針となるのは天文学に対する評価の変遷であろう。神の領域に属する知であり、それに好奇心を向けることが罪であるとするアウグスティヌスの立論以降キリスト教的価値観のもとで冷遇されてきた天文学が、コペルニクスやガリレイ以降(ちなみにブルーメンベルクは望遠鏡を天に向けたガリレイの方を高く評価する)、もはや神に対して自己の正統性を主張することなく好奇心の対象とすることを許容される学問になったプロセスは、科学史的にみて極めて興味深い。それ以降になると、17・18世紀における好奇心の無制限の拡大に対して、そのような理性の「本性」の自己制限を説くことがカントの啓蒙の理念であるという記述が目を引く。もっとも、それはアウグスティヌスが行ったような天文学に対する断罪ではない。「というのも、それはまさに究極的な帰結に至るまで理論的要求を断固として完遂することを正統化しており、もっぱら弁証論的な決定不可能性の明証性を通してのみ対象からの転向を正当化しているからである」。つまり、カントの理性の自己制限が意味しているのは、好奇心を発動させる前にその歩みを抑制することではなく、科学的探究を実際に遂行することによって初めて理性の限界を自覚し、それによって理性批判へと導かれるということである。

Posted byブクログ