島崎藤村 の商品レビュー
大東亜文学者会議の壇上において藤村の聖上万歳の音頭がいかにか弱く幼かったかを描写する一方で、日本浪曼派の蓮田の演説がいかに力強かったかを表す描写が面白いです。藤村の1940年代に占める役割を象徴していると思いました。 著者の平野謙はそんな弱くも幼い印象の藤村からある種の神聖さを感...
大東亜文学者会議の壇上において藤村の聖上万歳の音頭がいかにか弱く幼かったかを描写する一方で、日本浪曼派の蓮田の演説がいかに力強かったかを表す描写が面白いです。藤村の1940年代に占める役割を象徴していると思いました。 著者の平野謙はそんな弱くも幼い印象の藤村からある種の神聖さを感じています。外見とは裏腹に近代文学の巨人としての藤村の存在感を理屈を超えて感じています。 もし日本近代が西洋に対抗するものではなく、並立するものとして存在が許されたのであれば、藤村のか弱さと幼さは違和感なく時代に溶け込むものであったろうと思います。
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「破戒」 日本自然主義の礎となった「破戒」と「蒲団」については それぞれが商業的成功に引き換えとして 皮相的・卑俗的な受容に甘んじている…としながらも筆者は あくまで作品の本質を 偏見や同調圧力を振りかざす権力、すなわち衆愚への反抗と見るのだった 唯一、戦前に書かれたテキストであ...
「破戒」 日本自然主義の礎となった「破戒」と「蒲団」については それぞれが商業的成功に引き換えとして 皮相的・卑俗的な受容に甘んじている…としながらも筆者は あくまで作品の本質を 偏見や同調圧力を振りかざす権力、すなわち衆愚への反抗と見るのだった 唯一、戦前に書かれたテキストであるということもあってか この批評集に収められたものとしては浮いている だからってわけじゃないけど、個人的にはあまり内容に同意できない 「破戒」と「蒲団」はいずれも、撤退を肯定する思想だと 僕はそう考えているからだ 「春」 私小説の矛盾とは あまり実生活に密着してそれを書こうとすると 小説にならないものだから 書き手が事件を追い求めすぎてしまう、という点にある しかし島崎藤村は、その作品のなかでも あくまで実生活者としての基盤を失わなかった だからすごい というのが筆者の意見であるが、僕はそれに完全には同意できない なんとなれば藤村は、彼じしん相当の変人に違いなかったが 近親者たちがそれに輪をかけて変人ぞろいだったが故に ネタに困らなかったということがあるからだ 「春」もやはりそうで 北村透谷という文学史上の大変人を知己としてこそ書き得たものである そういった、文豪に固有の特権性をどうして彼は無視するのだろうか 「家」 家長の権威を絶対とする封建日本の伝統家庭 藤村はその陰惨さを、リアリズムにのっとって書き連ねていった ここでいうリアリズムとは 社会との関連を一切無視して家の中にのみ焦点を当てる手法のこと それがすごいってのには同意するが しかし封建的社会を書いてるから「否定的リアリズム」だってのは いったい何なんだ リアリズムはリアリズムだろ 「新生」 岸本捨吉(藤村)が欲した「広い自由な世界」 それは自らの行為に、誰からも責任を問われることのない世界 いわば全能感に満ち満ちた世界だ その実現をめざして岸本は 愛した女まで捨てて、自分ひとりの狭いナルシズムに撤退していった そのアイロニーがまさしく「新生」のメカニズムにほかならない そしてまたそれは 芥川龍之介がのちに自殺という形でしか成しえなかった 芸術至上主義の、なまの実践でもあったわけだ だから藤村スゴイ!という話に もちろん手放しの同意なぞ、できようはずがない 昭和20年12月、本当の終戦直後に発表されたこのテキストが あの戦争に踏み込んだ判断を、芸術的に正当化するものではないと どうしても信じられないからだ 藤村の狂気を、たんに父親から受け継いだ血統によるものと考えて またそれをあらゆる狂気の発現に通じるものと捉えれば そりゃ、あらゆる悲劇的な結末も 「仕方なかった」のひとことで済むのだろうが…
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