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絶対無の哲学 の商品レビュー

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2012/06/19

著者の理解する「絶対無のパラダイム」がどのようなものなのか、いまひとつ明確になっていないが、次のようにまとめてよいと思う。 ハイデガーの現存在は、存在の性起の場において自己が現に開かれていることを論じた。ここに、絶対無の開けへの接近を認めることができる。ただし、彼の現存在には、...

著者の理解する「絶対無のパラダイム」がどのようなものなのか、いまひとつ明確になっていないが、次のようにまとめてよいと思う。 ハイデガーの現存在は、存在の性起の場において自己が現に開かれていることを論じた。ここに、絶対無の開けへの接近を認めることができる。ただし、彼の現存在には、自覚の契機が伴っていない。この自覚を明らかにしたのが、西田幾多郎に始まる京都学派の「絶対無のパラダイム」だ。 西田は、キルケゴールのいう課題を担う自己とそのような自己がおいてある場所とが、対立しながらも相即していることを論じた。この二つの契機はそれぞれ「目的的形成作用」と「表現的形成作用」といわれる。「我々の自己が自覚するとき世界が自覚する」というのは、この二つの契機が対立しながら相即している事態を言い表している。 このように、西田においては自己と世界が矛盾的に自己同一であるような宗教経験の立場から「表現」が論じられているのに対して、田辺元のばあい、「種」という自然のレヴェルからの「表現」の成立が論じられている。現代において「表現」の問題を考える際に、この両方向からの究明が必要とされている。 おおよそ以上のような趣旨かと考えられるが、「表現」についての「上からのアプローチ」(西田)と「下からのアプローチ」(田辺)は、いったいどのようにして統一されるのだろうか。著者のいう「自然」(じねん)という概念に、両方向が統一された事態をかいま見ることができるものの、十分に論じられているとは言い難い。

Posted byブクログ