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弥生時代の集落 の商品レビュー

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2017/02/28

平成7ー8年の弥生文化博物館の共同研究を基礎にした論文集。面白い論文が多かったのだが、そろそろ返却期限が近づいてきたので、1番の目的である、松木武彦氏の「吉備の弥生集落と社会」について、まとめと感想を書いて、私の感想としたい。私が考古学に目覚める直前の研究である。この頃から約10...

平成7ー8年の弥生文化博物館の共同研究を基礎にした論文集。面白い論文が多かったのだが、そろそろ返却期限が近づいてきたので、1番の目的である、松木武彦氏の「吉備の弥生集落と社会」について、まとめと感想を書いて、私の感想としたい。私が考古学に目覚める直前の研究である。この頃から約10年間、弥生時代は重要発見が相次いだ。現代は、それらをキチンと評価すべき時なのかもしれない。 「吉備の弥生集落と社会」 松木氏は、吉備の環濠は、前期に小さなモノが現れるくらいで、「集落の一部を囲んだ施設にすぎなく」防御の機能はおそらく持っていなかっただろうと、推測している。その点で、北九州や近畿・伊勢湾沿岸とは大きな違いがある。なぜそうなのか。松木氏は、「それを要するほどの激しい武力抗争がなかったからだ」という説は大型石鏃や石剣の数からそれを退ける。「むしろ、大河川の三角州のただ中のわずかな高まりに集落がのり、いく筋もの自然流路が網の目のように周囲に広がるという自然条件が、環濠に代わる防御的な役割を果たしたとも想定できる。」(122p)という。 そしてその集落立地が、集落の流動化、そして周溝墓群が発達しない原因にもなったと推測する。その一方で、中期後葉から丘陵上や尾根上で墓がつくられ、「むしろこれが、集団成員による帰属感や一体性を意識させる視覚的・精神的な核となっていった可能性が高い」と見る。さらにはこれらが「青銅製祭祀の排除とほぼ軌を一にして」いるという。「この墓域が当初は首長墓では無く、集団墓として現れるのも重要である。」(みそのお遺跡、総社前山遺跡)つまり、青銅製祭祀の消滅が単純に共同体祭祀から首長墓祭祀へとの移行で始まったわけではないことを示している。つまり、松木氏は「墓の格差」は、社会組織や経済的な階層構造の変化から現れたというよりも、一族の中で傑出した個人が現れたことを記念するところから始まったとみるべきだ、と説く。吉備の地形条件によって墓域を分離する行為が古墳時代に通じるそれらの慣習を引き起こしたのだ、と松木氏は見るわけだ(もちろん、そう結論つけてはいない)。 20年前のこの考察は、しかし重要なのかもしれない。松木氏は述べてはいないが、この大雨によって流動化する集落の在り方が、吉備における龍神信仰を作り、それを止揚した楯築の被葬者という大王が産まれた契機になったのかもしれない。それを準備したののが墓域の分離だったわけだ。 中期から後期にかけて、吉備では、それ迄パッとしていなかった地域が突然輝き始めたという。例えばそれを鉄の交易路の開拓と見ればスッキリするかもしれないが、そう単純ではないのだろうな。 ともかく新たな視点を貰った。 2017年2月10日読了

Posted byブクログ