花田清輝評論集 の商品レビュー
花田をただのケンカ好きのマルキスト、とステレオタイプで捉えていては勿体なさすぎで、実はその正反対だったかもしれないのである。 レヴィナスやラカンのように、レトリックの衣はまんまと官憲の目をすり抜け、レトリックの中から思想が産まれた。いわばこれがポストモダンの核心かもしれない。 こ...
花田をただのケンカ好きのマルキスト、とステレオタイプで捉えていては勿体なさすぎで、実はその正反対だったかもしれないのである。 レヴィナスやラカンのように、レトリックの衣はまんまと官憲の目をすり抜け、レトリックの中から思想が産まれた。いわばこれがポストモダンの核心かもしれない。 このコンパクトなアンソロジーは旅のお供にも墓場に持って行くにも好都合である。
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華麗なレトリックが巧みに操られ、多彩な文言が分野横断的に繰り出される、花田清輝のアンソロジー。その手並みは確かに見事だが、軽妙奔放たる文体の鮮やかさに比して論旨の方はしばしば漠然として捉え難い。ただどの評論にもその背後に、虚無から目を逸らすまいとする構え、近代(が産み出した虚無)...
華麗なレトリックが巧みに操られ、多彩な文言が分野横断的に繰り出される、花田清輝のアンソロジー。その手並みは確かに見事だが、軽妙奔放たる文体の鮮やかさに比して論旨の方はしばしば漠然として捉え難い。ただどの評論にもその背後に、虚無から目を逸らすまいとする構え、近代(が産み出した虚無)を弁証法的に乗り超えようとする姿勢、が垣間見られる。 しかしそこで持ち出される"弁証法"はどうにもナイーヴな印象を与える。「前近代を否定的媒介として近代を乗り超える」と言うが、近代が喪失した"何か"を保持していたものとして(謂わば近代の反照として)前近代を遡及的に見出しそれを媒介として近代の乗り超えを図る思考自体が、まさに近代的ではないか。「近代を乗り超える」という構え自体が、超越すべきだとされている当の近代そのものに内在化されてしまうものではないか。「近代の超克」に孕まれるこうした自己関係性が、花田には見えていないように思われる。 それは、花田が魅せられたシュルレアリスム、非/前理性を追い求めるシュルレアリスム、がナイーヴであることと並行関係にあるといえる。更に、花田が肯定的に評価している柳田国男の胡散臭さにも通底しているのかもしれない。
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