生命の哲学 の商品レビュー
著者は、個々の生命体である「こと」と、生命の営みである「もの」とを区別し、「こと」がおのずから「もの」となり続けてゆく場面に立ち会うことが本書の目標だと語っている。 「こと」はみずからを「もの」化してゆく以外に現われる術を持たない。著者は両者の関係を、ハイデガーやニーチェの哲学...
著者は、個々の生命体である「こと」と、生命の営みである「もの」とを区別し、「こと」がおのずから「もの」となり続けてゆく場面に立ち会うことが本書の目標だと語っている。 「こと」はみずからを「もの」化してゆく以外に現われる術を持たない。著者は両者の関係を、ハイデガーやニーチェの哲学を手がかりにしながら、「現われ」と「隠れ」との相即として描こうとしている。「こと」を「もの」化して理解してはならない。著者は、オート・ポイエーシスに代表されるシステム論も、こうした誤りを免れていないと批判する。 オート・ポイエーシスの考え方にしたがうならば、生命はくり返しみずからを再生産しながら自己同一性を保っている。だが、自己組織化の運動そのものは見ることができる「もの」ではないと著者はいう。システム論者がそれを見ることができるかのように考えているのは、二つの前提を置いているからである。彼らは、世界の内のさまざまな現象の中で「生命」という現象をあらかじめ限定している、つまり「生命についての暗黙の了解」を前提している。また、生命を他のものから区別しているということは、生命と他の諸現象を包む「世界がある」ということを前提している。この二つの前提があるからこ「システムがおのずから作動することによって自己組織化している」ものという答えが理解されるものとなる。だがこの答えは生命と世界についての理解を前提としており、「生命とは何か」という問いに対して「生命とは生命である」という同語反復で答えたにすぎないと著者はいう。 だが著者は、生命の哲学の目標は、生命についての探究がこうした同語反復に陥ってしまう理由を解明することだと述べている。著者は本書の中で、ハイデガーの「性起」(Ereignis)を「こと」と訳している。生命の現出とは「こと」の生起である。生命は、みずからを「もの」として現わしながら固有の軌跡を描いてゆく「こと」である。後期ハイデガーは「自然」をこのようなものとして理解していた。ここに著者は、生命についての同語反復的な自己省察を通って生命がみずからを描き出すありようを見ようとしている。
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