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映ろひと戯れ の商品レビュー

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2023/02/26

藤原定家の和歌を読み解き、近代美学の地平を乗り越える可能性をそのうちに見いだそうとする試みがなされています。 著者はまず、西行、寂蓮の歌とともに「新古今三夕の歌」として知られる定家の歌である「見わたせば花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふぐれ」についての検討をおこなってい...

藤原定家の和歌を読み解き、近代美学の地平を乗り越える可能性をそのうちに見いだそうとする試みがなされています。 著者はまず、西行、寂蓮の歌とともに「新古今三夕の歌」として知られる定家の歌である「見わたせば花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふぐれ」についての検討をおこなっています。この歌の顕著な特徴として、「見わたす」というしかたで一定の距離を置いた観照の態度が示されています。そこで見わたされている風景は、「花も紅葉も」なく、「うらのとまやの秋のゆふぐれ」ということばによって象徴的に示されるような風景であり、感覚的直観性においてとらえられた風景ではないと著者は主張します。 その後著者は、西洋美学史において追求されてきた課題に目を向けます。プラトンは、「それ自体として絶対的に在るもの」をイデアとして規定する一方、それ自体としての存在をもつことのない感覚的なものを「パンタスマ」と呼び、否定的な評価をくだしました。その後、バウムガルテンからカント、ヘーゲルへと継承された近代美学において、感覚的なものの認識と完全性の認識という、両立しがたい二つの課題を統合的に解決することが求められつづけてきたということが確認されます。そのうえで、どこまでも「パンタスマ」の戯れのなかに美を見いだした定家の和歌において、こうした西洋美学史の根本問題を解消する道筋が見られるのではないかと論じられています。 本書は元来、宮川淳の依頼によって書かれ、「叢書エパーヴ」シリーズの一冊として刊行された本です。そうした経緯が記された「あとがき」が最後に附されているほかは、もくじも章分けもなく、エッセイ(試論)の形式で定家の歌をめぐる著者の思索が展開されており、読者のさまざまな想念を呼び起こす内容であるように感じました。

Posted byブクログ