井筒 の商品レビュー
「伊勢物語」を下敷きにした能です。伊勢物語は、その多くが「昔、男ありけり」で始まる短いお話(段)が100あまり集められたもので、各々の段の主人公は在原業平であると見られています。この能では、第23段(写本によって多少異なる)の「筒井筒」が軸となり、いくつかの段が組み込まれた形にな...
「伊勢物語」を下敷きにした能です。伊勢物語は、その多くが「昔、男ありけり」で始まる短いお話(段)が100あまり集められたもので、各々の段の主人公は在原業平であると見られています。この能では、第23段(写本によって多少異なる)の「筒井筒」が軸となり、いくつかの段が組み込まれた形になっています。 「筒井筒」は教科書に採られていたこともありますし、比較的よく知られたお話でしょう。 筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに 幼馴染の男女が淡く惹かれつつ、いつの間にか疎遠になる。けれども互いに忘れられずにいて、結局は男は女に妻問いをし、2人は結ばれる。上記の歌は男が女に送ったもので、「楽しく遊んでいた幼い頃は井戸の縁にも届かなかった私の背が、あなたに少し逢わずにいるうちに、もうこんなに伸びましたよ」というような歌です。 これで終わればめでたしめでたしなのですが、この男は、女の両親が亡くなって経済状態が悪くなると、余所に別の女を作るんですね(^^;)。それでもこの女は、夫の無事を祈りながら、黙って待っているのです。最終的には不実な夫もこの女の健気さにほだされ、女の元に帰ってきます。 そんなこんなで、「井筒の女」「人待つ女」などと呼ばれますが、この女は紀有常(きのありつね)の娘とされています。 この能では女が主人公となり、旅の僧相手に、自らの身の上を語ります。二部構成の「複式夢幻能」という形式で、世阿弥作と見られています。 世阿弥は本作を非常に気に入っていたようで、「上花(じょうか)也」と自賛していたそうです。 前半では旅の僧が業平ゆかりの在原神社(天理市)を訪ね、昔を偲びます。神社には、業平が使ったという井戸もあります。里の女がやってきて、業平のことについて語ります。その語りは、仲睦まじい夫婦がおり、しかしその夫婦はかつて夫の浮気という波乱を乗り越え、さらに元をたどれば幼馴染であったと、時を遡っていきます。そして自分の正体(=紀有常の娘)を明かし、消えていきます。 後半では僧の夢の中に女が現れます。ところが普通の女の姿ではなく、いとしい業平の姿を模した装束を身に付けているのです。業平も女も、実はもうとうに亡くなっています。死してなお、女は業平を忘れることができず、成仏もできずにいるのです。 愛し愛された昔を偲んで舞う女。男が女に憑依したかのような不思議な舞姿です。 ひとしきり舞った女がふと井戸を覗くと、そこには恋した男の姿が。 息を飲む女。一瞬、あたりはしんと静まり返ります。 実は、この能の中で、世阿弥は、前述の「筒井筒」の歌を、あまり一般的ではない写本から採っています。「塗籠本」と言われるものだそうですが、その中では、「過ぎにけらしな」ではなく「生(お)ひにけらしな」と歌われます。 終盤で、この歌が繰り返されます。 つつゐづつ 井筒にかけし まろがたけ 生ひにけらしな そして続けて 老いにけるぞや と。 ああ、幼い頃のあの恋。もう私たちは老いてしまった。朽ちてしまった。 けれどもやはりあなたが恋しい。 この能では最終的に女は成仏しません。恋に生き、恋に死に、なお中有を恋のためにさまよい続けるのです。それはある意味、甘美な煉獄なのかもしれません。 そしてそれを「上花」と称した世阿弥という人も、あるいは相当なロマンチストだったのではないかと思ったりします。
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