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バディ・ボールデンを覚えているか の商品レビュー

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2015/02/19

ジェフ・ダイヤーが『バット・ビューティフル』の「あとがき」で誉めていたので、どんな本だろうと思って読んでみた。何人ものジャズ・ミュージシャンの人生の一場面を「想像的批評」という方法で活写した本の書き手が称揚するだけに、かろうじて写真一枚を残すだけで、演奏の録音すらないジャズ史に残...

ジェフ・ダイヤーが『バット・ビューティフル』の「あとがき」で誉めていたので、どんな本だろうと思って読んでみた。何人ものジャズ・ミュージシャンの人生の一場面を「想像的批評」という方法で活写した本の書き手が称揚するだけに、かろうじて写真一枚を残すだけで、演奏の録音すらないジャズ史に残る伝説的なコルネット奏者の数奇な半生を、短い断章を駆使したコラージュ風のタッチで鮮やかに切り取ってみせる。書いたのは、映画『イングリッシュ・ペイシェント』(イギリス人の患者)の原作者マイケル・オンダーチェ。惹句にはドキュメント・ノヴェルなどという耳慣れない言葉が使われているが、実在の人物を素材にしたこれは、紛れもない小説である。 バディ・ボールデンは1877年生まれ。19世紀末から20世紀初頭にかけてニューオリーンズ・ジャズの最高のコルネット奏者として君臨。ジャズというスタイルの創出に重要な役割をはたしたが、三十歳のときに精神に異常をきたし、後半生を精神病院で送る、と「訳者あとがき」にある。とてつもなく大きな音が出せたという伝説が残っている。唇が傷むのもかまわず高音を吹き続けたとも。エキセントリックなミュージシャンだったのだろう。 ダイヤーがミュージシャンのポートレートを見た印象からストーリーを紡いで見せたように、現地を訪れたマイケル・オンダーチェは、知人にインタビューし、残されたわずかな資料を探して歩くうち、人物が「憑依」するのに気づく。探偵がその日の捜査で得た結果を手帳にメモするように、短い断章形式で書きとめた記述の合間合間に、バディ・ボールデン本人が立ち現われてくる。無論、作家の想像である。小説だというのはその意味だ。作家的資質の持ち主にかかれば、いくら事実をもとにして書かれようが、書かれた物は限りなく虚構に近づいていくのは避けられない。むしろ読者にとっては、その方がありがたいくらいのものだ。 昼間は床屋で働きながら、耳に入ってくる醜聞をネタにしたゴシップ新聞を発行し、夜はクラブでコルネットを吹いていた。彼を贔屓にする顔役が毎日届けてよこすアルコールが回ってくると狂気を帯びた剃刀が怖くて顔見知りは午後には髭を剃らせなかったなどという話も、後半生を知る者にはうなづける挿話だ。娼婦上がりのノーラを妻にしたのはいいが、妻は町一番の色男と手が切れない。バディの方もミュージシャン仲間の妻に魅かれ、二つの頂点が重なる三角関係が生じる。挙句が刃傷沙汰に次ぐ失踪事件だ。 何も知らずに手にとった読者なら、この本は探偵小説だと思うだろう。今は警官をやっているウェッブが、失踪した旧い友人のバディを捜し歩くという体裁をとっているからだ。作家はウェッブの眼を借りて、ニューオリーンズの街をバディを捜して歩く。性病に侵され、娼館を追い出された娼婦たちが商売道具のマットレスを背に川べりに立つあたりは、まるで夜鷹のそれを見るようだ。用心棒に見つかると踝を棒で叩かれ潰される。ジャズの本だと思って読んでいると、とんだまちがいだ。酒と娼婦と音楽がまだ混沌としていた時代のニューオリーンズにいつのまにか迷い込んでしまっている。 伝説となったジャズ・ミュージシャンの末路はいつも何故か嘘寂しい。バディに憑依した作家が描き出す荒涼とした精神病院の風景、密閉された空間でおおっぴらに行われるレイプは論外だが、精神を病んだバディが見つめる自分とそれを取り巻く世界の描写がリアルで背筋が寒くなる。人が毀れてしまうには、それなりの理由があるのだろうが、当事者にとって納得できる何ものもそこにはない。よくできたハード・ボイルド小説を読んだ後のような、空しさと静かな余韻がいつまでも残る。

Posted byブクログ

2010/04/18

『太陽があらゆるものを漂泊していた。コーラの看板はほとんどピンク。残っているペンキは枯草のような色。午後の二時の陽光。ここには彼の完全な不在がある』 マイケル・オンダーチェの小説が不思議な感覚を呼び覚ますことには、少しは慣れたつもりでいたのだが、この本はそんな勝手な思い込みを心...

『太陽があらゆるものを漂泊していた。コーラの看板はほとんどピンク。残っているペンキは枯草のような色。午後の二時の陽光。ここには彼の完全な不在がある』 マイケル・オンダーチェの小説が不思議な感覚を呼び覚ますことには、少しは慣れたつもりでいたのだが、この本はそんな勝手な思い込みを心地よく打ち砕く。何とも似ていない、そんな小説がこの「バディ・ボールデンを覚えているか」である。"Coming Through Slaughter"。原題のslaughterは、大文字で始まる通りの名であり、小文字で始まる「殺戮、屠殺」であり、ひょっとすると「消滅」というニュアンスさえも抱え込んだ言葉だろう。その多面性が、この小説の何よりの特徴である。 オンダーチェの他の小説と、ある意味では、共通するように、ここにあるのは、相変わらずの断片ばかりである。しかし「イギリス人の患者」や「ディビサデロ通り」とは少し異なり、断片の間には一つの共通のたくらみがある。これらの断片にはある一つの核心の周りをぐるぐると取り囲み、徐々に中心に迫ろうとするベクトルが存在するように感じる。そのベクトルが核心にあるものを少しずつ明らかにする。そのことが、ナイフのような鋭利なものによる行為であることは、否応なく了解させられる。 時に薄く掛かるベールを切り裂くように、時に不透明の革の膜をザックリと切り開くように。しかしそうやってたどり着いた場所には、何かがある訳ではなく、そして奇妙なことではあるけれど、全ての理由があるようにも思える。そこにあるもの、それこそがslaughterでなくて、なんだろう。 謎の中心であるはずのバディ・ボールデンは、実はどこへも消え失せていない。しかし物語(? 果たしてこれを物語と呼んでしまってよいのだろうか、という疑問は強く湧くけれど)の核心にあるもの、あるべきものは、最初から最後まで不在であり続ける。じっとりとした汗、ぬるりとした血、むき出しのままのナイフ。そういった頭よりも先に肌の表面が意味を知ってしまうようなものは、幾らでもそこにあり強烈な存在感を示すのに、それらの元の所有者(それは特定の誰かということですらない)は、不在でありつづける。いや、身体は残っていないが、その輪郭と深い苦悩は、今もそこに、ソファの上に、塊となって、まるで幽霊のように座り続けているのだが。その堂々巡りとも思える先が辿りつくのがスローター通りの先の施設。 まるで知らない物語である筈なのに、しつこく襲ってくる既視感。それはオンダーチェの文章がいつの間にか脳の記憶領域に浸透し、内側から何かを訴えてくるからに他ならない。例えば、一度だけ訪れたことのあるニューオーリンズの街路が、ミシシッピ川の匂いが、フラッシュバックしてくるようにも思うけれど、それはひょっとすると「ペリカン文書」の映像の記憶かも知れず、はたたまオンダーチェの描写から脳が勝手に作り上げた虚構かも知れないのだが、もはやその区別を付けることの意味を問えなくなってしまっている。 そうしてオンダーチェの小説を読んだ後にいつも感じるように、記憶の断片の間のつながりの余りの無力さに愕然とするのである。

Posted byブクログ

2009/10/04

天才コルネット奏者バディ・ボールデンの生涯を描きだす力強い言葉の断片。詩と小説の中間にあるような言葉です。

Posted byブクログ