戦争児童文学は真実をつたえてきたか の商品レビュー
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●:引用、→:感想 ●軍や政府の当局者は、猛獣が市民に危害を加えるのを心配するほど人道的だったろうか。彼らが本当に人道的だったら、庭先の小さな防空壕や、火叩きとバケツによる消火活動などまったく無力であることを、国民に告げるべきだった。B-29のような爆撃機の空襲には、軍事的にほとんどなすすべのないことを、正直に言うべきだった。そうすれば、国民はもう少し自分で身を守り、何十万人もの人が空襲で殺されることはなかっただろう。(略)敗北以外のなにものもないことを知りつつ、あそこまで戦争を続行し、死ななくてもいい人々を多数殺した連中が、猛獣による危害を本当に心配するほど人道的などということはありえなかった。しかし「かわいそうな ぞう」をはじめとして、人間を守るために猛獣は殺されたという立場から書かれた作品は、虐殺を決定した人々を人道的だと見ていることになるのである。(略)猛獣虐殺の指示者は人道的どころか、戦争推進者に連なる人々であり、戦争を始めた人々そのものだと言ってよかった。だから、虐殺に至る過程を明らかにし、その責任を追求してはじめて、本当の戦争に講義し、戦争責任を追及することになったのだ。「かわいそうな ぞう」が最初に発表された時点では、虐殺の細かい方法などは公表されていなかった。しかし、虐殺と空襲の時間的関係ははっきりしていたのだから、それを手がかりに虐殺の持つ真の意味を考えていくことはできたはずだ。しかし「かわいそうな ぞう」はそういうものにはならず、猛獣たちの虐殺と戦争を漠然と結びつけたにとどまり、「神話」を流布してしまうという結果をもたらした。「かわいそうな ぞう」は決してすぐれた戦争児童文学ではないのである。 →たしかに事実関係を調べればその通りであり、著者の主張も間違ったものではない。それは分かっている、それはそうなのだが、何か引っかかる。 「かわいそうな ぞう」の初出は1951年。本論文の発表が1981年。なにか今だから見える、言える視点でモノを言っていないかという疑問(?)。 別に「かわいそうな ぞう」に対して特別な思い入れがあるわけではないのだが、「それを言っちゃおしまいよ」という感じ。 そうか、作品を批判するだけでなく、作者をも批判、否定しているように読めるからかか。 当時、土屋由岐雄は77才。何か反論をしなかったのか知りたい。
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