入門講義 倫理学の視座 の商品レビュー
それまで倫理学を学んだこともなく、その後も学ぶことはないであろう学生を相手に著者がおこなった教養課程の「倫理学」の授業に基づいている。学生たちが身近に感じられる具体的な諸問題にそくして、彼ら自身が採るであろう「幸福主義的」ないし「功利主義的」な思考方法を検証・考察するという仕方で...
それまで倫理学を学んだこともなく、その後も学ぶことはないであろう学生を相手に著者がおこなった教養課程の「倫理学」の授業に基づいている。学生たちが身近に感じられる具体的な諸問題にそくして、彼ら自身が採るであろう「幸福主義的」ないし「功利主義的」な思考方法を検証・考察するという仕方で議論が進められている。 死刑判決にしたがって慫慂として死についたソクラテスによって、「いかに生きるべきか」という問いが、単に「生き延びること」や「うまく生きること」をめざす処世訓的なレヴェルから、無条件的で絶対的な「善さ」のレヴェルへと引き上げられた。著者はそこで無条件的で絶対的な「善さ」が問題になっていることを解説しながら、常識的な考えに根づいている功利主義や快楽主義、そして何が正しいかは共同体や個人によって異なるという相対主義の考え方にひそむ問題点の指摘をおこなっている。その上で、ソクラテス的な「善さ」を解明する仕事がカントの倫理学においてなされていることが紹介されている。 ただし、カント倫理学にも一定の「限界」が存在する。カントは人格が単なる手段として扱われてはならず、同時に目的として取り扱われなければならないと主張した。だが何が人格と呼ばれるに値するかをきめるのは、私たちの一つの価値判断に基づいている。だが、カントの形式主義的な倫理学から、何が人格と呼ばれるに値するかを決定するための具体的な指針を取り出すことはできない。 こうした形式主義的な倫理学がもつ「限界」を克服する可能性を、著者はP・ウィンチ倫理学に見いだそうとしている。ウィンチによれば、制度に対する「誠実さ」(integrity)という概念は「制度にかかわり責任を負う」(commitment)という概念から分離することはできない。もちろん、どのように振舞うことが誠実とされるのかということはそれぞれの社会制度によって異なる。だがそれにも関わらず、一般に制度に対して誠実であるべきではないという規約を採用することは不可能なのである。ウィンチはここに、恣意的に変更されうる規則とは区別されるべき規範が認められるという。著者はこうしたウィンチの議論を解説しながら、カントが定言命法という思想によって表現したのもじつはこうした理法だったのではないかと主張している。
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