失われた時を求めて(12) の商品レビュー
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第七篇「見出された時」は、最終章である。これまで長々と書き継がれてきた事どもが、一気に終幕に向かってなだれ込む。時は、第一次世界大戦の真っ最中。パリの街の夜空をサーチライトが幾条もの光で飾っている。その中で「私」が覗き見るのは快楽を求めマゾヒズムの世界に躍起となってしがみつくシャルリュス氏の姿であった。下卑た連中相手の生活ぶりにもかかわらず、フランス中を巻き込んだドイツ憎しの感情からは自由で、久しぶりにあった「私」に持論を開陳する。反俗的な貴族精神の歪んだ発露でしかないようにも見えるが、ドレーフュス事件同様、批判精神をなくした世論への作家の反撥が窺えるところだ。 自己の快楽を求める内心の声に忠実であり、最後にはその姿を老リア王にも喩えられるシャルリュス氏と比べ、他の連中は節操もなく社交界の中で浮き沈みを繰り返している。今や、社交界に君臨するのはゲルマント大公の後添えに治まったヴェルデュラン夫人であり、芸術づいたゲルマント公爵夫人はますますサロンから遠のいていた。夫の公爵はオデットの屋敷に入り浸りで、かつてのスワンや「私」のように愛する女を囲い者の状態に置いている。 「見出された時」という標題は、言うまでもなく「失われた時」に対応している。紅茶に浸したプチット・マドレーヌから始まった物語は、長い間、自分の文学的才能や文学という形態自体の持つ芸術的意味について自信が持てずにいた「私」が、ゲルマント大公邸中庭の敷石に躓いた時、突然襲いかかるように訪れた圧倒的な無意志的記憶の奔流の中で、自分の書くべきことを見つけるというエピソードで終幕を迎える。 不揃いの敷石の感覚や、口を拭ったナプキンの固さといった偶然の出来事が、それまで何度も記憶を頼りに呼び戻そうとして果たせなかったヴェネツィアやバルベックを生き生きと甦らせ、圧倒的な幸福感で私を包む。この快楽こそが絶対であり、現実にその場を訪れた時のもたらす快楽の方が幸福感が乏しい。それは、私の外部にあり、真の快楽は私の内部にしかないからだ。 私にできることは、「それらのあった場所、つまりは私自身のなかで、これをより完全に知ろうとつとめること、その印象の深いところまでを明らかにしようとすること」である。しかし、「未知の記号で書かれた内心の書物を読む」ことは、一つの創造行為にほかならない。多くの作家が戦争や事件について書くという口実を作ってそれから逃げるのも、誰の助けも借りることのできない孤独な作業に絶えられなかったからである。 表現しなければならないのは、主題の外観ではなくそのもっと深いところにあるもので、個々人の主観もふだんは、突きつめて探ろうとしないからたどり着けないが、探索を続ける努力を怠らなければ、普遍的な真実に行き着く。この個から普遍へ辿る道筋はヴァントゥイユの七重奏曲のところで既に語られた理論である。つまり、「私たちは芸術作品を前にしていささかも自由ではなく、それを自分たちの思い通りに作るのではなくて、私たちよりも前に存在しているその作品は必然的でもあると同時に隠れているものでもあるから、自然の法則を見つけるように、それを発見しなければならない」というのが、「私」の見出した結論である。 そうなると、今まで無駄に費やしてきたような「失われた時」が、作品の宝庫ともなる。自分に才能がないと思っていた「私」が、見聞きし、経験してきたことは、いつか書くべき本のための、植物でいうなら胚乳のようなものであって、育つかどうかは分からないままに秘かにしかし活発に化学的な現象が息づいていた場所といえよう。発見された鍵が隠されていた秘宝を暴くように、つまらなく思われた社交界の人々についての観察や実ることのなかった恋愛経験に逆に深い意味を発見していく過程は、それまでのこの作品のリズムとはまったく異なる速度と強度を持ち、有無をいわせぬ迫力で一気に核心に突き進む。 ゲルマント家の午後の集いに集まった面々を眺める「私」の目には、彼らがまるで別人のように見える。時が彼らを老いさせたのだ。しかし、彼らの目には、その「私」もまた老いて映っているのだった。「私」は、残された時間のなかで、自分の書こうとしている本のことを考える。後に、それが『失われた時を求めて』という名で、世界中の人に愛されることになろうとは、「私」にはまだ分かるはずもなかっただろうが。
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