火星の人類学者 の商品レビュー
[びっくり芋] 脳神経外科医オリバー・サックスの書く本はどれもおもしろいですが、自閉症の動物学者のみる世界観は「へえ」とおどろきます。 佐賀大学:秋だねえ
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内容(「MARC」データベースより) 自らを「火星の人類学者」と呼ぶ自閉症の動物学者をはじめ、障害が特殊な才能を開花させた7人を世界的に著名な脳神経科医サックス博士が深い洞察で描く。一般人の病気観をくつがえす全米ベストセラーの医学エッセイ。
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20/5/30 宇宙は、われわれが想像するよりも奇妙などころか、想像もおよばないほど奇妙である。>j・b・s・ホールデーン その人物がどんな病気であるかと問うのではなく、その病気にはどんな人たちがかかっているかを問うがよい。>ウィリム・オスラー 一般的な指針とか制約、助言と...
20/5/30 宇宙は、われわれが想像するよりも奇妙などころか、想像もおよばないほど奇妙である。>j・b・s・ホールデーン その人物がどんな病気であるかと問うのではなく、その病気にはどんな人たちがかかっているかを問うがよい。>ウィリム・オスラー 一般的な指針とか制約、助言というものはあります。だが、具体的なことは自分でみつけなければならないんですよ。
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障害者を扱った本としては異色の内容です。7人の色んな障害を持った人のお話しなのですが、良くある障害者に対する変な同情や理解を煽る、ベタベタとした甘ったるい本ではなく、脳神経医の立場から、障害者自身にこの世界がどのように見えていて、どのように認識され、どのように社会生活を送って...
障害者を扱った本としては異色の内容です。7人の色んな障害を持った人のお話しなのですが、良くある障害者に対する変な同情や理解を煽る、ベタベタとした甘ったるい本ではなく、脳神経医の立場から、障害者自身にこの世界がどのように見えていて、どのように認識され、どのように社会生活を送っているのかを、徹底的に客観的に調査分析した本です。 表題から堅い内容かと敬遠してたのですが、一度読み出すと個々の障害者の奇妙な生態(そういう意味でも火星の人類学者というタイトルが見事に掛かっています。)の見事な描写にグイグイ引き込まれ一気に読んでしまいました。 ちょっとだけ紹介すると、生まれて直ぐに視力を失った人が大人になってから視力を回復したケースがありました。一般的には視力回復して良かったねと思うじゃないですか?でもこの患者はやがて「視力が無かった状態に戻りたい」と言い出すんですよ。何でだと思います?知りたければこの本を読んで下さい。きっとビックリしますよ。人間って凄いなーって。
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オリヴァー・サックスは「レナードの朝」の医者のモデルとして有名ですよね。。 あの映画を見て本当の話だと知ってそれで読んでみた。 ラマチャンドランの「脳の中の幽霊」よりは患者を「患者」として見るのではなく、「人」として見て書いているので、 コッチの方がいくらか読みやすかった。(それ...
オリヴァー・サックスは「レナードの朝」の医者のモデルとして有名ですよね。。 あの映画を見て本当の話だと知ってそれで読んでみた。 ラマチャンドランの「脳の中の幽霊」よりは患者を「患者」として見るのではなく、「人」として見て書いているので、 コッチの方がいくらか読みやすかった。(それでもやっぱりついていけないところ多々。。) 最後の「自閉症」である女性のお話には何気にカンドー。。 (他にも白黒の世界しか見れなくなった画家の話とか。)
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「レナードの朝」という本が自宅の書棚にはある。同名の映画を観たくて機が熟すのを待っていた時にふと本屋に置いてあるのを見つけて買ったものだ。その後、映画は観たのだけれど、その本は最初の数ページ以上に読み進められることは遂に無かった。だから、この「火星の人類学者」が同じ著者の作品と知...
「レナードの朝」という本が自宅の書棚にはある。同名の映画を観たくて機が熟すのを待っていた時にふと本屋に置いてあるのを見つけて買ったものだ。その後、映画は観たのだけれど、その本は最初の数ページ以上に読み進められることは遂に無かった。だから、この「火星の人類学者」が同じ著者の作品と知って少し後ろめたい気分がした。 どうして自分は「脳」という言葉に惹かれてしまうのだろう。自分が「意識」とか「脳」とかいう問題を扱っている本を熱心に読みはじめたのはそれ程前のことではない。1997年のことだ。ボストンのボーダーズ書店で購入したロジャー・ペンローズの「皇帝の新しい心」を読んだのが、そもそもの始まりだった。しかし、何故あの時この本を手に取ったのだろうか、と考え直すと解らなくなる。何をその分厚く込み入った本に期待したというのだろうか。英語の本を読み通すことも覚束なかったというのに。 そんなことをふと思い返してしまうのは、このオリヴァー・サックスの本を読みながら、どうも自分には自閉症に特有の症状が幾つかある、ということに気づいたからだ。もちろん、自分は今現時点で自閉症ではないと自覚しているし、ある程度健全な人付き合いもできている(と信じている)。従って自閉症の症状が幾つか当て嵌まると言っても大きな問題ではなく、恐らくどんな人にも多かれ少なかれ自閉症に当て嵌まる性格や特徴はあるのだということを確認しているに過ぎないのだとも言える。しかし、自分はどうも何かにこだわってしまうとそれをとことんやり尽くさないと気が済まない性格だと思うし、単なる数字の羅列が時々意識しない内に記憶されていることもあるし(例えばソフトウェアの再インストール時にライセンスキーとなる無作為な数字の羅列が思いがけず記憶の底から蘇ったり)、母親によれば3才位までは言葉を発することもなかったらしい。小学生位までは、ものごとの秩序というものがよく理解できなかったし、周りの友達ともなんとなくズレていたようにも思う。 本書によれば自閉症は感情の発育遅延の病であるという。中には、徐々に感情を獲得するかのような発達を見せる患者も居るらしいが、基本的には一生完全な発育はないらしい。症状の軽い患者の中には自らの精神の在り様を客観的に表現することができるものを居るようだが、その言によれば、彼らは他人の感情ということを理解することはできないのだそうだ。論理的な思考は問題なくできるし、個々の事象を再現無く詳細に記憶し理解することもできるのだが、全体を統括することや、意味の飛躍とでも言ったらよいような感情の動きは理解できないらしい。実は、自分の小さい頃というのは、まさにそのような状態だったのではないだろうか、と思い返しているのだ。 自分の子供がある事柄を理解するのに思いの外時間が掛かっているのを観察した時、その記憶は、鮮明なものとして蘇った。例えば、余り他人からの賛同は得られないのに、何かが何々に似ている、と自分はよく感じる。そのような分類を子供のころの自分は常にしていたように思う。そして、似ている事柄から、その結果を予測する、ということも常にしていたのだ。しかし、似ている事柄は似ているだけで、実際とは異なる。すると当然結果も異なり、自分はしばしば途方に暮れていたのだ。自分の子供にも見いだしたその戸惑いのようなものを思い返すと、それは軽度の自閉症ということだったのか、とも思うのだ。似たような二人の子供を観察した自分の父親は、細かいことを整理するのに時間が掛かり、全体を把握するまでに中々至らないのだ、とその状況を説明したが、それはまさに自閉症の子供がゆっくりとその状態から脱皮する過程のようだ。 こだわり、とか、急に始まる過度の集中なども、考えてみるとその傾向と一致するのではないだろうか。自閉症というのはどうやら遺伝しがちな症状のようだが、奇妙なことにその過度の集中というのは、確かに自分の子供にも遺伝している。もちろん、だからどうということはない。しかし、この本の最終章「火星の人類学者」に登場するテンプル・グランディンの話を読む内に、そうとは気づかない内に自分は、内なる何かが求めるものを、飽くまで論理的に懸命になって追いかけていたのではないのか、とふと思った。「論理的に」というところが自分の性癖に一致しており、妙に納得のいく説明のように思えるのだ。すると、「脳」ということに惹かれるのは、何かその内なるものに係わっているのではないのか、と思えて来るのだ。 もちろん、自分は自閉症ではない。過度の集中力を見せることもあるが、通常は一つのことに集中できない性格でもある。いや、待て。それも実は自閉症の症状の一つでは無かったか。本当に自分は自閉症ではない、と言い切れるのだろうか。
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