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絵画における真理(上) の商品レビュー

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2010/06/07

デリダの著作を読むのは私のライフワークの一つ。というのはとても大袈裟である。読むといっても,日本語訳だし,彼はもう死んでいるので,これ以上著作も新しく生まれてこない。それでも,彼の本を1冊買うのは金銭的にも大きな勇気であり,日本語でも1冊読むのは私にとって大仕事である。デリダの著...

デリダの著作を読むのは私のライフワークの一つ。というのはとても大袈裟である。読むといっても,日本語訳だし,彼はもう死んでいるので,これ以上著作も新しく生まれてこない。それでも,彼の本を1冊買うのは金銭的にも大きな勇気であり,日本語でも1冊読むのは私にとって大仕事である。デリダの著書の翻訳は一時期止まっていたように思う。それが,多分,東 浩紀の『存在論敵,郵便的――ジャック・デリダについて』(新潮社,1998)をきっかけに,翻訳化が進み,主著のほとんどが日本語で読めるようになった。本書も原著は1978年に出版されたものだ。 私がデリダを初めて読んだのは『エクリチュールと差異』だったが,正直さっぱり分からずに,彼の文章が地理学研究に役に立つなんて思っていなかったし,もう他の著作を読もうとは思わなかった。それが,たまたま『グラマトロジーについて』を読んで,それが私の研究テーマの一つである「場所の言語的構築」に深く関わることになり,1997年の英文論文に引用することとなった。その後,その続編である,2004年の『地理科学』論文では,デリダの隠喩論を使い,現在進行中のオースター研究ではデリダの翻訳論と『尖筆とエクリチュール』を,今後展開したいと考えている場所論ではデリダのコーラ論を利用する予定。今回も先日学会で発表し,現在執筆中の写真研究のなかで,本書がちょこっと使えそうだ。 本書は,タイトルによれば絵画論。しかし,上巻を読み進めると,『亡者の記憶』の時のような,明らかな絵画論ではない。それは美学論である。ヘーゲルの『美学に関する講義』およびカントの『判断力批判』がその主たる検討対象であり,時折ハイデガーの『芸術作品の根源』にも言及する。「パレルゴン」と題された章では,「エルゴン=作品」の「パル=外」について語る。つまり,絵画論といいながら,その中心である絵画作品自体について語るのではなく,その外部,その縁辺,それ以前について語るのだ。具体的には「額縁」についての議論があるが,もちろんそれ以外の「外部」についても。そして,この「パレルゴン」のなかに,「巨大なるもの」という節があり,ここでカントの崇高論の検討がある。私が最近関心を持っている崇高論。でも,意外にもデリダらしくなく,カントの議論を逸脱して斬新な解釈はなし。ということは,思ったよりも崇高という概念にはそれほどの深みはないということか。

Posted byブクログ