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現象学の視線 の商品レビュー

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2024/04/16

ー 日常についての日常的意識には、このように、生を歴史と日常性へと分断する思考法がひそかに住みついている。ところで、いま仮りに、規則的かつ反復的なリズムをもったものへと時間的に編成された生を日常と考えるならば、われわれはまさにこの日常において、諸々の生活遂行の土台となるような生の...

ー 日常についての日常的意識には、このように、生を歴史と日常性へと分断する思考法がひそかに住みついている。ところで、いま仮りに、規則的かつ反復的なリズムをもったものへと時間的に編成された生を日常と考えるならば、われわれはまさにこの日常において、諸々の生活遂行の土台となるような生の安定層を手に入れると言える。そして、たとえば天災や戦争といった非日常的な出来事の生起とともに、ひとびとの生がこうしたリズムからいやが応にも離脱させられることによって、日常性は攪乱され、破壊される。日常性は外部の侵入によってかんたんに乗り越えられてしまうようにみえる。 しかしそのとき、日常性もまた歴史を乗り越える、とコシークは指摘する。戦争の最前線にも、強制収容所にも、日常生活はある―《人間は絞首台にも慣れる》。被災地では涙もかれぬ間に生のリズムが回復されてくる。非日常性の最たるものであるはずの死も、葬儀や法要、あるいはその準備を通して、われわれがいつからともなくなれ親しんできた日常世界のなかに吸収される。祭日は平日とともにすでに日常のスケジュールのなかに組みこまれている。日常は、はなはだしく非日常的なもの、つまりその外部までいともあっさりと呑みこんでしまうのである。 ー 『かたちだけの愛』の解説が鷲田清一さんだったのでなんとなく。おそらく学生時代に買ったやつだから20年経ってやっと読んだ。

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2014/10/04

[ 内容 ] われわれの「現実」や「経験」が、どこから来てどこへ行こうとしているのか、その移行の基礎的な構造を問うのが現象学である。 「経験」を運動として捉えたフッサールと、変換として捉えたメルロ=ポンティを中心に、現代思想の原点となった現象学的思考の核心を読み解き、新たなる可能...

[ 内容 ] われわれの「現実」や「経験」が、どこから来てどこへ行こうとしているのか、その移行の基礎的な構造を問うのが現象学である。 「経験」を運動として捉えたフッサールと、変換として捉えたメルロ=ポンティを中心に、現代思想の原点となった現象学的思考の核心を読み解き、新たなる可能性をも展望する。 著者の出発点をなす力作「ウィリアム・ジェイムズの「経験」論」を含む第一評論集、待望の文庫化。 [ 目次 ] 1 日常の藪のなかで―「日常性」の解釈と批判 2 一貫した変形―デフォルマシオンとしての経験 3 共存のポイエティック―間主観的世界の生成 4 分散する理性―「究極的な基礎づけ」という理念の破綻 補論 存在の作業場―ウィリアム・ジェイムズの「経験」論 [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]

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2012/06/18

フッサール、メルロ=ポンティらの現象学を手がかりに、「現実」や「経験」などのあり方を論じた論文4編と、W・ジェイムズの「経験」について論じた補論「存在の作業場」を収める。 現象学では、あらかじめ対象との出会いを可能にしている匿名的な働きの次元を「経験の地平」と呼ぶ。「地平」は超...

フッサール、メルロ=ポンティらの現象学を手がかりに、「現実」や「経験」などのあり方を論じた論文4編と、W・ジェイムズの「経験」について論じた補論「存在の作業場」を収める。 現象学では、あらかじめ対象との出会いを可能にしている匿名的な働きの次元を「経験の地平」と呼ぶ。「地平」は超越的な審級ではなく、歴史的・感主観的に意味が堆積することで形成されたものである。この「地平」の次元にまで沈潜し、「日常」「意味」「他者」などを解明することが本書の中心テーマだ。 「分散する理性」と題された第4章では、フッサールの思想の批判的検討を通じて、著者の哲学的立場が明らかにされている。フッサールは、私たちの経験の原初的な次元である「生活世界」を発見したが、さらにそれを「超越論的主観性の領域」へと還元することをめざしていた。彼は、「あらゆる構成の唯一的な機能中枢」としての自我の究極的存在様態を「生き生きした現在」と呼び、そこに見いだされる現在がたえず非現在へと流れ去る「自己疎隔化」の働きが、自我によるあらゆる構成の働きの源泉とされた。 これに対して著者は、「生き生きした現在」にはたえず現在へと到来し、自己を新たなあり方へと開いてゆく働きを見いだしている。それによって、自己の内へ集中してゆくフッサールのとった道とは逆の方向へ、すなわち、主観が他の主観と相互に制約しながらそこに巻き込まれているような、非完結的な機能連関としての意味構成の場を見いだす方向へと、著者の思索は進められることになる。 ジェイムズ論では、「倫理が論理を凌ぐ」と表現される、彼のプラグマティックな知識の理解に焦点があてられる。ジェイムズは根本的経験論において、純粋経験という生の原初的領域に自己の哲学的立場を定位した。そこでの知識の真理性は、生の主体がそれを生きることにおいて自証するものであり、経験は知識のかたちをとって語り出されることで経験からいったん浮上したあと、その結果を携えてふたたび生の内へと還帰する。そして、ジェイムズにとって世界はこうしたプロセスを経て進展してゆくような、「存在の作業場」として理解されていた。 以上のような内容を持つジェイムズ論は、現象学的な「経験」の分析がおこなわれている本論の議論と深いところで呼応しつつ、そこでは十分に展開されることのなかった著者の倫理思想の方向性を予告する役割を果たしている。

Posted byブクログ

2009/10/04

若き鷲田清一の精巧な論文集。哲学研究者としても怖ろしい力を発揮している。言葉の巧みさの原点がここに見える。

Posted byブクログ