明代建文朝史の研究 の商品レビュー
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序章 懿文太子の死とその波紋 懿文太子朱標の死後、朱允炆の立太孫には五ヶ月の期間がかかっており、燕王朱棣との比較逡巡が見受けられる。このしこりが建文帝即位後の直ぐの削藩につながる一因とも言える。 第一章 削藩政策の展開 削藩は、告発と拘禁が素早くセットで行われており、削藩のための作られた出来レースだった。その中では、官僚姻戚軍民の数千人も犠牲になっており、消して無血ではなかった。 第二章 諸王府の軍事的力量と五王削藩の関係 諸王の護衛は衛原額の約1/3であり、また出征時には勅命が必要であり五軍都督府の統制を受けていた。削藩された五王のうち、周王・代王は燕王との血縁姻戚関係から、斉王・湘王・岷王は日頃の素行の悪さから、建文政権のターゲットにされた。 第三章 靖難の役前夜 北平城内は布政使張昺・都指揮使謝貴・採訪使暴昭、城外は開平の宋忠・臨清の徐凱・山海関の耿瓛の都督らによって包囲されていた。燕王護衛も大半が引き抜かれ、燕王府長史葛誠も寝返る。燕王側は終始恭順に振る舞うが、その内では占者達に挙兵の成功を占わせ士気を高めていった。 第四章 靖難の役・燕王・祖訓 燕王が挙兵の根拠としたのは、太祖が定めた皇明祖訓の規定であった。親王は皇帝の密命を受けて奸臣を討てという規定を都合よく切り貼りし、燕王は大義名分の旗印として掲げた。 第五章 靖難の役と建文政権の対応 燕王の挙兵に際し、初戦で敗退した建文政権は早々に大将の耿炳文を更迭するなど、その後も戦略指導の貫一性に欠いた。また戦争遂行による完全勝利をあくまで目する燕王の真意を読み違え翻弄されるなど、未熟な指導部を晒した。 第六章 靖難の役と諸王の動向 燕王の挙兵に際し、諸王は静観か建文帝側に助力した。唯一燕王側となった寧王も燕王により攻略されたがゆえの協力であった。 第七章 靖難の役情報と李朝 李朝朝鮮は靖難の役前より明朝の情報の仔細を把握していたが、国益のために戦略的な対応を取っていた。 第八章 靖難の役と衛所官Ⅰ-燕王麾下の衛所官- 燕王麾下の衛所官軍は、靖難の役を経て陞進した。その結果、北平近辺の主力となった衛所は京衛や親軍衛に昇格され、衛所官は全国各地の衛所へ赴任し永楽政権の衛所の支配再編がなされた。 第九章 靖難の役と衛所官Ⅱ-建文帝麾下の衛所官- 建文帝麾下の衛所官軍は靖難の役後も基本的には旧職に留任され、敵対による降格はなかった。 終章 建文と永楽の間で-建文諸臣の行動様式- 靖難の役後、建文諸臣は多くが永楽政権でも任用された。任用の基準は永楽帝への順逆で、建文年間に敵対的であった臣でも才があり帰順すれば任用された。永楽政権はもともと一王府であり、帝国政権をそのまま担えるような陣容はなかったためである。一方で永楽政権に従わない臣は酷薄な刑を受けた。
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