明るい部屋 の商品レビュー
技術的な写真論ではなく、いかに写真を探究するかについて、バルトの母への思いを混ぜながら語る私小説的な哲学書。 彼の写真への並々ならぬ思いが伝わってくる。 4割くらい理解できなかったけど、他は割と腑に落ちた。 写真は芸術ではなく、それがあったという事実を残す存在である。過去を...
技術的な写真論ではなく、いかに写真を探究するかについて、バルトの母への思いを混ぜながら語る私小説的な哲学書。 彼の写真への並々ならぬ思いが伝わってくる。 4割くらい理解できなかったけど、他は割と腑に落ちた。 写真は芸術ではなく、それがあったという事実を残す存在である。過去を記録すると同時に、その過去の未来を想像させる不思議な物。
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撮る人、撮られる人、写真を鑑賞する人、という三者の関係性によって写真は意味を帯びる。 撮る人/撮られる人にとって今の瞬間を切り取った写真も、写真を鑑賞する人にとっては過去に存在していた「今」の記録になる。 写真において普遍的に美しい形式や構図などはなく、鑑賞する個人の文化的背景やその時の感情によって大きく良し悪しが決まる可能性がある。 著者曰く、写真は過去と現在/自己と他者が介在した奇妙な特性を持ち狂気を内包している。その狂気を受け止めるかどうかは個人の選択になる。 ただ、いわゆるトラウマが想起されるように、個人では選択不可能な気もするので、ここらへんは再度読み直し理解が深める必要あり。 ===================== 社会は「写真」に分別を与え、写真を眺める 人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。 その目的のために、社会は二つの方法を用いる。 …以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを 完璧な錯覚として文化コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる 手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(pp.142-146) ====================
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~狂気をとるか分別か?「写真」はそのいずれも選ぶことができる。 なんと魅力的な文章か。バルトの解説本よりもバルトの言葉に触れるべきなのだ。 抽象化を避け、だからといって具体を語り、陳腐化することのない視点。そこがすごい。 ・写真が芸術に近づくのは絵画を通してではない。それは...
~狂気をとるか分別か?「写真」はそのいずれも選ぶことができる。 なんと魅力的な文章か。バルトの解説本よりもバルトの言葉に触れるべきなのだ。 抽象化を避け、だからといって具体を語り、陳腐化することのない視点。そこがすごい。 ・写真が芸術に近づくのは絵画を通してではない。それは演劇を通してなのである。 ・写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、技巧、現実、ルポルタージュ、芸術等々から引き離されたときである。 ・思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも堪えがたい特徴の一つ。 ・プルースト:私はただ単に苦しむというだけでなく、その苦しみの独自性をあくまでも大事にしたかった。 ・写真には未来がないのだ。写真にはいかなる未来志向も含まれていないが、これに対して映画は未来志向であり、したがっていささかもメランコリックではない。 ・逆説的なことに、歴史と写真は同じ19世紀に考え出された。・・・写真の時代は、革命の、異議申し立ての、テロ行為の、爆発の時代、要するに我慢しない時代、成熟を拒否するあらゆるものの時代でもあるのだ。 ・私は映画を一人で決して観ることには耐えられない(十分な数の観客がいなければ、十分な匿名状態は得られない)が、しかし写真を見るときは、一人になる必要がある。 ・写真は、私の気違いじみた欲求に対して、ただ何とも言い表しようのないあるものによって応えることしかできない。・・・そのあるもの、それが雰囲気である。・・・言葉を欠いた悟りであり、「そのとおり、そう、そのとおり、まさにそのとおり」という境位の希に見る、おそらく唯一の明証であった。 ・要するに雰囲気とは、おそらく、生命の価値を神秘的に顔に反映させる精神的なある何ものか、なのではなかろうか。 ・一般的なものとなったイメージが、葛藤や欲望に満ちた人間の世界を例証すると称して、実はそれを完全に非現実化してしまうことが問題なのである。
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名文。写真に対する熱狂的な考察を、面白い観点、鋭い感性、分かりやすい文章を用いて書いている。写真論の先駆的な本。写真のオントロジーだけでなく、見る•見られる•撮る•撮られるなど立場をかえてそこに現れる人間の本質についても述べられていて、かなり面白い。
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「写真とはそれ自体何であるのか、いかなる本質的特徴によって他の映像の仲間から区別されるのか」。冒頭に置かれたこの問いへ応えるため、著者は本書で「無秩序性(分類が不可能)」、「実践(写真の物理的性質)」、「自己同一性(撮られた自分の写真を、本当の自分ではないと感じる)」などをキー...
「写真とはそれ自体何であるのか、いかなる本質的特徴によって他の映像の仲間から区別されるのか」。冒頭に置かれたこの問いへ応えるため、著者は本書で「無秩序性(分類が不可能)」、「実践(写真の物理的性質)」、「自己同一性(撮られた自分の写真を、本当の自分ではないと感じる)」などをキーワードに、写真の深部を注意深く探り当てていく。そして、「ストゥディウム(一般的関心)」と「プンクトゥム(著者を惹きつける細部)」という術語により、その特異性を説明できると結論する。 けれども、まったく突然に著者はそれを取り消す。そして、亡くなった母への思慕や追悼を通過することで写真の本質に迫ろうとする後半では、論理が支配した前半から一転して、本書は私小説の気配を濃くする。 哲学者・批評家であった著者の個人史と、学術的な写真論が融合した、比類のない一冊。
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てっきり古い本かと思ってたらそうでもなかった 訳者あとがきにもあるようにお母さんの話が多いし 写真という単語が頻繁にでてくるわりに 写真そのものの話をしている感じがしない
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【7. 冒険としての「写真」】p29 Cf. サルトル『想像力の問題』 【44. 明るい部屋】p130~ 「写真」は、深く掘り下げたり、突き抜けたりすることができないということ。凪いだ海の表面と同じように、私は目で走査することしかできないのだ。「写真」は、語のあらゆる意味において平面的[平板、平明、平凡、単調]である。このことは認めなければならない。 「写真」はその技術的起源ゆえに、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)という考えと結びつけられるが、それは完全に誤りである。むしろ、カメラ・ルシダ(明るい部屋)を引き合いにだすべきであろう(カメラ・ルシダというのは「写真」以前にあった写生器の名前で、これは一方の目をモデルに向け、他方を画用紙に向けたまま、プリズムを通して対象を描くことのできる装置であった)。 《映像の本質は、内奥をもたず、完全に外部にある、という点にある。にもかかわらず、映像は、心の奥の考えよりもなおいっそう近づきがたく、神秘的である。意味作用はもたないが、しかし可能なあらゆる意味の深みを呼び寄せる。明示されてはいないが、しかし明白であり、セイレンたちの魅力と幻惑を生むあの現前=不在の性格をもつ》 【48. 飼い馴らされた「写真」】p145~ 狂気をとるか分別か?「写真」はそのいずをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別あるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる。 つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真の"エクスタシー"と呼ぶことにしたい。 以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。
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さくさく読めるのにわからない。 興味深かったのは見る側からの評論だということ。 「それはかつてあった」ことを確かに示しているが、未来は伝えない。「かつてあった」ことが今自分にむけて訴えかけているというズレ。 だめだ、よくわからない。
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改めて読みなおした。 とても面白かった。写真の存在論。 ふと思ったのは、バルトが写真を定義付けする際に用いるあのあまりにも有名な「かつて-そこに-あった」は、黒沢清監督が語る映画のそれと極めて似ているということ(ドキュメンタリー『曖昧な未来』)。バルト自身は、本書において度々映画...
改めて読みなおした。 とても面白かった。写真の存在論。 ふと思ったのは、バルトが写真を定義付けする際に用いるあのあまりにも有名な「かつて-そこに-あった」は、黒沢清監督が語る映画のそれと極めて似ているということ(ドキュメンタリー『曖昧な未来』)。バルト自身は、本書において度々映画に付いても言及していて、写真と映画の差異を繰り返すのだが、どうもバルトの写真と黒沢の映画の存在論的な認識は似ている。もう少し詳細にトレースできるようにとりあえずここにメモ。
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写真とは何か。写真一般ではなく、バルトにとって重要な個別具体的な写真を手がかりに本質に迫ろうとする、私小説にも似た論考。最後まで読んでも答えははっきり出ず、もどかしい印象が残ります。 でも、このもどかしさが何か重要な示唆を含んでいる気がしてなりません。
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