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『このごろの建物の階段は、むかしより勾配がきつくなったように思う。けこみが高くなったのか、段数が多いのか、なにかそんなことにちがいない。たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ登るのもめっきりむずかしくなった』―『あなたの年齢当てます』...
『このごろの建物の階段は、むかしより勾配がきつくなったように思う。けこみが高くなったのか、段数が多いのか、なにかそんなことにちがいない。たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ登るのもめっきりむずかしくなった』―『あなたの年齢当てます』 軽妙。例えば植木等のコメディの本質は「反語」であると思う(全く悪びれていない「こりゃまた失礼いたしました」とか)が、コーリイ・フォードの語り口もまた極端に反語的だ。発表された媒体の読者層に合わせたのであろうユーモアは、主にアイビーリーグ卒の(「当時の」と一応断っておく)旧態然としたホワイトカラーの日常やステロタイプな夫婦像を皮肉ったものだが、読みようによっては、作品が書かれた六十~九十年前の時代背景や価値観が当然のことながら今の社会では受け入れられない部分もある。しかし敢えてそのユーモアの表出の仕方を見てみるなら、人々が隠したり胡麻化したりしがちな少々嫌らしい性格を極端に正当化する主人公たちを登場させることで笑いを喚起するというもので、痛いところを突かれたが故の可笑しみがあると思う。言葉を辞儀通りの意味以外に解釈しないことが唯一正しいとする価値観が蔓延する中で、そのユーモアが通用しなくなっていることに、ふと思いが逸れていく。 一方で、時代も変わり人々の生活様式も変わった筈なのに、フォードの突いてくるユーモアの対象となる人の性のようなものは、少しも変わっていないことも解る。人は、時代と共に文明が進化して「ソフィスティケート」されたようでも、どこまで行っても欲から逃れられず他人と比べることを止められない。だからフォードのユーモアも他人のことを言っていると思えば笑うことができる一方で、自分のことを言っていると思えば腹が立つ。 フォードのユーモアを当て擦りと捉えて憤慨する人々の、憤慨する気持ちの根っこにあるは、揶揄されてしまうような「どうでもいいようなことへの小さなこだわり」であり、それを気にしていないふりをしつつも実は気にしているという事実を口外されてしまったことへの羞恥であるように思う。もちろん、そんな小さなこだわりを大切にすることこそ個性であると認めるべきなのであるが、例えば植木等が「スイスイスーダララッタ~」と笑い飛ばしたように、自分自身を自意識の罠から解放して眺めてみることも大切じゃないかな、などと養老孟司の哲学を考えた直後の頭で思ったりもする。 ところでフォードの代表作の一つでもあるらしい「あなたの年齢当てます」には、著者認定版(というのがどういう事情で出版されたものなのかは翻訳者のあとがきをどうぞ)から復刻された素晴らしいイラストがあるのだけれど、岩波書店のドリトル先生シリーズで育った世代には、これは作家ヒュー・ロフティングの描いたものか、と一瞬錯覚を起こさせる代物。実際はグルーヤス・ウィリアムズという挿絵画家の描いたものだが、この絵師のユーモアも古典的な面白さ。彼がランドマクナリー社のために描いたイラストも是非ご覧あれ(gluyas willaims rand macnallyで検索)。
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最初のはなしが一番面白い。 年をとったら感じることを、老いを認めず、まわりのせいにするユーモア。 他のはイマイチだった。
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