現代言語学 の商品レビュー
poached eggを“落し卵”とする他にも,古風な訳が散見される。原著が1979年であることも手伝って,再読は要らないと思う。 ***** 言語学と心理学とを結びつけたのはチョムスキーが最初ではない。しかし人間の本性から言語の本質を探るのではなく,逆に言語の本質から人間...
poached eggを“落し卵”とする他にも,古風な訳が散見される。原著が1979年であることも手伝って,再読は要らないと思う。 ***** 言語学と心理学とを結びつけたのはチョムスキーが最初ではない。しかし人間の本性から言語の本質を探るのではなく,逆に言語の本質から人間の本性に迫る詳細な議論を提示したのはおそらくチョムスキーが最初であろう。(p.i) 文が文法的であると認める能力も,文を造ったり理解したりする能力も,以前に同じ文に接しているがゆえに得られるものとは考えられない。(p.5) ある個人の言語体系を記述する方法は1つしかない。つまり,その個人の言語体系は部分的には他の話し手と共通しているものの,究極的には彼が1人で構築した規則の集合によって支配されているものと見るのである。(p.10) 話し手が所有する言語知識というのは残念なことに,無意識の知識なのである。それゆえ,言語学者の仕事は,話し手の知っている文法規則を,明晰かつ意識可能な形で形式化することである。言語学をこのように把握するならば,それは人間の精神の一面とかかわっており,この理由からまさしく心理学の一分野とされてよい。(p.11) “正しい類推”という考え方自体が,正しい類推と正しくない類推とを区別する規則の集合を前提としていることになり,結局いくぶん異なった道筋を通ってではあるが,正しい文構成のための規則または原則の集合としての文法という概念に戻ってこざるをえないのである。(p.13) 言語を習得する際,話し手が接する発話が多様であるにもかかわらず,その学習過程の結果である文法に驚くべき類似性がある。(p.16) かの有名な「ことばを使う」チンパンジーのワシュ―とサラについて聞いたことのある人なら,この動物たちが人間は生まれながらに言語能力を授かっているという主張に対し,脅威を与えると感じることがある。和シューとサラは喋りはしないが,手話の体系をあやつり,それを限られた範囲内ではあるが人間と交信するのに使うことを教わったのである。そのことが時に人間の言語的独自性への脅威と受けとられることがある。しかし実のところ,独自性の問題は生得性の問題とは異なり,まったくとるに足りないように私たちには思える。人に教えて鳥の巣を造らせることができるという事実から,鳥の巣造りはもはや鳥独自のものではないと論理的に結論できよう。また,チンパンジーを教育して人間の言語体系を用いて伝達行為をさせうるという事実から,人間の言語は人間独自のものではないと結論を引き出すこともできようが,それは鳥類愛好家にとっても言語学者にとっても特別興味深いものとは思われない。人間が教えられれば鳥の巣造りを行なえるという事実から,鳥は巣を造るように生まれつきプログラムされていない,という結論は出てこないし,チンパンジーが教育されれば喋れるようになるという事実があったからといって,人間は特別に言語を覚え,使えるよう生得的にプログラムされてはいないという結論も出てこない。私たちにとって興味深く思われるのは遺伝学上の問題なのである。(p.21) …言語知識というものは私たちの意識のレベルよりもずっと下にあり,言語の話し手に直接質問しても,その人の言語知識について確かな情報を得ることはほとんどできない。(p.29) 実は,言語能力と言語運用の区別,および文法性と容認可能性の区別に平行して,文と発話の区別をする必要がある。つまり文は言語能力のモデルの領域に属し,発話は言語運用のモデルの領域に属する。(p.36) 辞書部門が例外と個別の特性をあつめた目録であるならば,文法は記述の対象となっている特定の言語に固有の有意義な一般化の目録である。(p.51) 共感的な部外者の方が,なまなかな部内者よりも内部に対する秀でた洞察を示すことはしばしば観察されるところである。(p.338,監訳者あとがき)
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