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2024/09/15

ミシェル・フーコーの『性の歴史I 知への意志』を下敷きに、日本近代における「性欲の装置」の形成の過程を丁寧に追っていく。絶版になった30年近く前の本だが、とても面白かった! そもそも「性」という言葉がセックスを意味するようになったのは1910年頃のことであり、先にセクシュアリ...

ミシェル・フーコーの『性の歴史I 知への意志』を下敷きに、日本近代における「性欲の装置」の形成の過程を丁寧に追っていく。絶版になった30年近く前の本だが、とても面白かった! そもそも「性」という言葉がセックスを意味するようになったのは1910年頃のことであり、先にセクシュアリティの訳語として「性欲」という言葉が流行してからだという。「性欲」は「湧いて」きて「溜まる」ものであり、抑え込んだり、コントロールしたりできるものというイメージは、そうした実感が先にあったのではなく、語る言葉が出来たことによって実感が出来上がっていったのだという。ある事象をあらわす言葉が必要になって言葉が生まれるのではなく、言葉が生まれたことにより、その周辺の概念が出来上がっていくというのは面白い。 「性」が人間のアイデンティティ形成に強固に結びつくものと考えられるようになったのも、近代になってからだ。江戸時代や明治初期には「同性愛」という言葉はなく、パンが好き、ご飯が好きといった好みと同じような次元で「男色」「女色」が語られていたという。 男が自分の内面にある(とされる)性欲を把握し正しく活用することで自己を主体化する過程で、女の性欲や快感や性に対する主体性が邪魔になってくるため、それらを男に都合よく意味付け抑圧していく過程は、シンプルに「気持ちが悪い」という感想に尽きる。「女には性欲がない」「女の性欲は母性に由来する」「女に性欲はあるが男により開花される受動的なものである」など、よくもまぁこんな気持ちの悪い言説がまかり通っていたものだと思う。 悲しいのは、女性たちが自己を主体化するために受け入れた「処女性」の価値が、男が女に一方的に要求するものとして捉えられ、処女ではないからと離縁される女性がいたり、フェミニストたちがリプロダクティブライツを主張するために持ち出した「母性」という概念が、女性の性への主体性を覆い隠すものとして利用されたりと、女性たちが自己を主体化するために作り出した概念が悉く男性主体の「性欲の装置」の中に絡め取られ、逆利用されてしまっていることだ。 受動的で全身的な性的快楽を、能動的で「性器的」な性欲に置き換えることは、男たちを常に能動的な性欲の発揮による主体化に駆り立て、その不安による攻撃性は女性に向けられる。女性の意思に反する強姦的な性行為を行うことが、「女の人格を否定する最大の侮辱」となるのは、大正時代に新しい女たちが作り出した「処女や貞操は女の人格」といった、性欲の自己決定という主張による女性の主体化の言説に由来するというのは、なんて皮肉なことだろうか。 そもそも「性」なんてものに、自己の存在証明や人格といった絶対的な価値が与えられたのは、たかだかこの100年ちょっとの話なわけで、性をそんなに大したものと捉えないことが、逆に「性欲の装置」への抵抗になるのかもしれない、というのは大きな気づきだった。

Posted byブクログ