新潮国語辞典 現代語・古語 第2版 の商品レビュー
新潮国語辞典
この辞書は昔(20年前か?)スーパーでの販路外本のコーナーで見つけた。その当時は数ある国語辞典うちの一つかと思っていたが、使っているうちにその良さと、編者の先生が素晴らしいこと、いまだにその良さが光っている。例えば「練り歩く」の説明では、普通の辞書(ほとんどすべての他の辞書だが)...
この辞書は昔(20年前か?)スーパーでの販路外本のコーナーで見つけた。その当時は数ある国語辞典うちの一つかと思っていたが、使っているうちにその良さと、編者の先生が素晴らしいこと、いまだにその良さが光っている。例えば「練り歩く」の説明では、普通の辞書(ほとんどすべての他の辞書だが)では「道を行列を作って、静かに歩く」の意味だけで済ましている辞書がほとんどだが、この辞書はもう一つの語義として、「道をうねうねと行きつ戻りつして進んでいくこと=神輿などが」の意を加えていること素晴らしい。辞書作りで大事なことは言葉のあらゆる用法を詳しく拾うことが僕の評点だが、辞書作りでは昔の辞書=大家と言われる編者の原書の孫引きであることが多いこと、いくら立派な辞書でも、孫引きの多さにはうんざりする。「〇辞苑」などと比較しても。優れた辞書の一つだ。いまだに色あせない辞書だ。
tmrt.418
現代語辞典と古語辞典を兼ねた国語辞典。収録項目数14万500。見出し語のうち和語はひらがな表記、漢語はカタカナ表記で区別する。巻末に文法概説、国語関係の法令集、常用漢字音訓表、官位相当表、季語一覧等の付録がある。-記紀・万葉から現代語まで、豊富な用例と確かな出典。
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「読書」という言葉の射程は、果たしてどれほどのものであろうか。一般的には読むことそれ自体が目的化するような行為をそう呼んでいるようだ。文学作品を筆頭とする小説やエッセイなどに真っ先に指を屈する人も多いだろう。論文や文献など、手段として行なわれる読みは「勉強」と見做されたりもするが...
「読書」という言葉の射程は、果たしてどれほどのものであろうか。一般的には読むことそれ自体が目的化するような行為をそう呼んでいるようだ。文学作品を筆頭とする小説やエッセイなどに真っ先に指を屈する人も多いだろう。論文や文献など、手段として行なわれる読みは「勉強」と見做されたりもするが、基本的には充分に読書の範疇であると言える。 さてそこで、辞書である。辞書を読むことは、読書であり得るか。いや、そもそも、辞書とは読むものなのか。辞書とは、必要な時に必要な項目を「引く」ためのものではないのか。だから普通、辞書は常に手段であるし、事実、辞書を読もうと発想する人間は多くない。むしろ、恐らくは極めて少ないだろう。しかし、辞書の中に濃密な読書の愉悦を見出してしまう人間も居るのだ。少なくとも、確かにここに、一人いる。 数ある国語辞典のなかで、僕が最大の畏怖と敬愛をもって接してきたのがこの『新潮国語辞典 現代語・古語』だ。 現代語に限って編纂された姉妹版もあり、どちらも名作であることは間違いないのだが、僕の個人的な信念により密着しているのは、やはり古語を含んだ前者である。 すべての用例が古語で示されており、尚且つそれらの出典も明記されている。現代語というのは高々ここ百数十年の歴史しかない文章作法であり、国語の中核を成し、基礎を支えているのは未だに古典語、すなわち古語と漢語である。古文、漢文への造詣と洞察無しに、日本語がもつ典雅な風情の真髄は決して表現しえない。 この辞典は現代語という窓を通して、ややもすると外国語のように捉えられてしまいがちな古語の世界を正しく拓く。神経質に磨かれた窓からの視野は緻密に計算され、日本という風土の匂い立つような原景を見事に切り取っている。まさに労作の名が相応しい白眉である。 辞書としての機能を考えても、丁寧で比較的長めの語釈が敷かれ、各々ビシッと決まっているし、引用される出典の範囲も上代から江戸期まで大胆に時代を横断しており、申し分ない。日本語の読み書きに多少通じた人間にとっては、これ程自在に遊べる国語辞典は他に類を見ない筈だ。 辞書は書物である。書物は書物として読まれなくてはならない。語釈を虚心に読み、辛楚に耐えつつ語義を身体に浸漸させてゆくという営みは、殊、慎独という点に於いては読書の薀奥に触れているのではないだろうか。辞書を読むことは、その真率故に「読み」の本質を直に肌で感じる事が出来る貴重な機会だ。無知を啓いて未知を知り、片息で言葉の海に溺れるのも、また愉悦である。僕が人生の多くを費やしてきた、意味の迷宮を彷徨う途方もない旅は、この一冊から始まった。
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