最後の授業 の商品レビュー
これも先週読んだ本。 「最後の授業」というと、ドーデの『最後の授業』、あのアルザス・ロレーヌのなんとかという話をまず思い出すが、この『最後の授業』は、エドギュという人の作。図書館のNDC分類によると、929.5(トルコ文学)。 この本のことを知ったのは、里見さんの『パウロ...
これも先週読んだ本。 「最後の授業」というと、ドーデの『最後の授業』、あのアルザス・ロレーヌのなんとかという話をまず思い出すが、この『最後の授業』は、エドギュという人の作。図書館のNDC分類によると、929.5(トルコ文学)。 この本のことを知ったのは、里見さんの『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』におさめられていた一文によって。 図書館にあったので、借りてきて読んでみた。 不思議な文章で、散文詩のように思えたり(たとえば『ハートビート』や『あの犬が好き』のような)、こういう小説もあるんかなと思い、いやこれはノンフィクションか?と思ったりした。 どこからかやってきた男が(その経緯が読んでいてどうもよくわからない不思議さがあるのは、男自身がなぜ自分がそこにいるかわからないという書き方をしているからだろう)、土地の言葉がわからないその場所で、子どもたちに自分の言葉を教えることを引き受け、それで冬を越すことになる。 タイトルの「最後の授業」の前に、始まりには「最初の授業」がある。 男はその「最初の授業」で、子どもたちにこう話しかける。 xii 最初の授業(p.108~) …書いたことを消してはいけないよ。間違っていても消してはいけないよ。先生もね、間違えたところを消さないようにしているんだ。これから先、いつか、自分の間違いが、自分が犯した間違いが分るようにするためにね。その時がきたら直すためにね。さあ、いいかい、こっちを見てごらん、消さないようにして、先生が使っている言葉で、先生がこれから皆に教える言葉を使って、君達が知っている言葉を全部ノートの最初のページに書いてごらん。(p.109) 男のこの呼びかけは、子どもたちには全く通じなかった。 男は「ここにいるのだから、まずはここのことを知る必要がある」(p.110)と考え、「お互いが通じる言葉を彼等から学ぶのだ。その言葉で彼等と話すようにしよう。それらの言葉に新しいものを付け加えていこう」(p.112)と思うのである。 lxiv 最後の授業(p.319~) 任期を終えた男は子どもたちにこう挨拶する。 …ここを去ることになったので君達に頼みたいことがあるんだ─── 先生が教えたことを全部忘れて欲しいんだ。地球は回っているよ、そうなんだけれどもね、ここでは、こんな山奥ではね、自転してないと思う方が正しいかも知れないんだ。君たちに社会科を教えたけれどね、社会の本当のことは、君達自身が、ここで、ふたつの国境に挟まれたこの山岳地帯の村で、遠くの町へ行ったときに、兵役のときに、あるいは刑務所に入れられたときに勉強しなさい。忘れてはいけないよ、本に書いてあることや学校で学んだことが常に正しいとは限らないんだ。 先生には正しいと思えることでも、君達にも正しいとは限らないんだ。先生には必要なことでも、君達にはそうとは限らないんだ。先生が君達に教えたことのほとんどがそうだったとしたら許して欲しいんだ。なぜかというとね、君達が知っているように、先生はよそから来たんだ。だから雪が溶け始めたので帰ることになったんだ。どこから来たのかよく分らないんだけれど、帰ることにね。君達はここに残るんだ。ここで生活するのは君達なんだ。(p.321) …先生が冬の間君達に教えたことのほとんどは本当のことじゃなかったんだよ。でもね、これから話すことは本当のことだよ─── …人間というものはね、生まれて三ヶ月の赤ちゃんが原因不明の病気にかかっても死なないで生きることができるんだよ。 ハンセン病やトラホームは運命でなるのではないんだ。何事も運命ではないんだよ、君達。 これだけだよ。 先生が本当に言いたいことはこれだけなんだ。(p.322) 「学校でこそできること」は何やろうなーとか、学校で教えたり教わったりする「知識」って何やろうなーとか、義務教育というのはたぶん"普遍教育"をめざすということになってるんやろうけど普遍的に教えられることってあるんかなとか、そんなことを考えたりもした。ふと、ブルーハーツの「歩く花」という歌を思い出したりもした。 そして、やはり不思議な読後感なのであった。
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