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西田哲学の世界 の商品レビュー

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2014/09/12

西田幾多郎の思想を、西洋に始まる哲学そのものに生じた「転回」とみなす立場から、その意義を考察している。 西田幾多郎は『善の研究』の中で、私たちの日常的な経験の一つひとつが「純粋経験」だとする見方を打ち出した。その一方で彼は、純粋経験を深めてゆくと、「筆自ら動く」画家の経験のよう...

西田幾多郎の思想を、西洋に始まる哲学そのものに生じた「転回」とみなす立場から、その意義を考察している。 西田幾多郎は『善の研究』の中で、私たちの日常的な経験の一つひとつが「純粋経験」だとする見方を打ち出した。その一方で彼は、純粋経験を深めてゆくと、「筆自ら動く」画家の経験のような「知的直観」と呼ばれる境地に至ると考えた。この両者の関係について著者は、目の前の事実が宇宙の活動そのものである「統一的或者」の一先端現場として見られるような経験が、「知的直観」だとする解釈を打ち出す。 その後西田は、フッサールにおけるノエシスとノエマの相関構造を超えて、主体的な「有」の立場の奥底に「場所的限定」を見いだした。「場所」とは主体的意識の「底」であり、「見るものなくして見るもの」だとされる。さらに著者は、こうした考え方は後期西田哲学の中で、より明確になったと考える。そこでは西田は、私たちの自己は「作られたものから作るものへ」と限りなく移りゆく世界そのものの自己射影点として働くと考えた。 だが、自己が世界そのものの焦点として働くということは、どのようにして把握されるのだろうか。「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である」と西田は語る。こうした「世界から見る」立場を確立したのが後期西田哲学であり、それによって西洋に始まる哲学そのものの「場所論的転回」が果たされたと著者は論じている。著者は、こうした「世界から見る」ような自覚のあり方を説明するに当たって、集合論と群論のモデルを用いることで、その内実を明確にしようと務めている。 また、西谷啓治の宗教哲学が、西田の「転回」をどのように推し進めることになったのかを論じた章や、ハイデガーと西田の比較をおこなっている章も、興味深く読んだ。

Posted byブクログ