史記(8) の商品レビュー
「太史公自序」(列伝第70) 太史公遷は李陵の禍にあい、獄に幽閉された。そこで、きぜんとして嘆息して言った。 「これは私の罪だろうか。これは私の罪だろうか。我が身は処刑されて破損し、世に用いられない」 処刑されて後、退いて深く思いをひそめて言った。 「(略)要するに、人はみな心に...
「太史公自序」(列伝第70) 太史公遷は李陵の禍にあい、獄に幽閉された。そこで、きぜんとして嘆息して言った。 「これは私の罪だろうか。これは私の罪だろうか。我が身は処刑されて破損し、世に用いられない」 処刑されて後、退いて深く思いをひそめて言った。 「(略)要するに、人はみな心に鬱結するところがあって、その道を通じることができないゆえに、往事を述べて未来を思うのだ」 かくて、尭の時代から今上帝の時代に至るまでを述べた。その記載は黄帝から始まる。 不肖私は、北方謙三「史記武帝紀」に出会い、司馬遷「史記列伝」関連記述を読んだ。即ち第49李将軍列伝、第50匈奴列伝、第51衞将軍・ひょうき列伝、第52平津候・主父列伝、第63大宛列伝である。北方「史記」は描写肉踊り詳細を極めるが、司馬遷「史記」は故事整斉し美有り、義を扶け、才気高く、時期を失わず、功名を天下に立てた者を精確簡潔に描いて見事であった。改めて、司馬遷の偉大さを知った。 李陵の禍のあとに「世に用いられない」と嘆いたのは「事実」だろう。その後、司馬遷は中書令として「出世」するので、更に「鬱結するところ」により発奮したのが、飾りのない事実であることがわかる。完成は出世あとなので、こんなことをわざわざ書く必要がないからである。司馬遷の史記作成の動機に、武帝の世への批判があることは明らかではあるが、決して武帝への復讐ではない。「我々は何処から来て何処へ行くのか」往事を述べて未来を思う、弛まない人類に対する好奇心が、この傑作を作ったのだと思う。 2014年5月6日読了
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