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芸術と宗教 の商品レビュー

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2019/02/27

画家の東山魁夷と宗教哲学者の西谷啓治の二人について書かれた著者の論考を収録しています。 幼いころから癇癪持ちで負けん気の強い少年だった東山魁夷は、そうした自分自身を筆によって救い出したと著者はいいます。東山の絵の多くは青を基調にした風景画であり、そこに著者は、現代文明の喧騒を超...

画家の東山魁夷と宗教哲学者の西谷啓治の二人について書かれた著者の論考を収録しています。 幼いころから癇癪持ちで負けん気の強い少年だった東山魁夷は、そうした自分自身を筆によって救い出したと著者はいいます。東山の絵の多くは青を基調にした風景画であり、そこに著者は、現代文明の喧騒を超え出て宗教的な「祈り」へといたろうとする軌跡を見ようとしています。 西谷啓治は、禅の立場から西洋哲学の行き詰まりを超え出る道を開きました。デカルトが懐疑によって自我を見いだして以来、西洋哲学における自我は「死せる物質の海に浮かぶ孤島」のようなものになってしまったと著者はいいます。こうした自分自身の内に閉じこもった自我のあり方が「大疑」によって破られるとき、「天地我と同根、万物我と一体」であるような境地に達することができると西谷は考えます。このことは、南泉が花を指さす動作のうちに見いだされます。花を指さすことによって、花は花として、我は我として、それぞれがみずからのうちへと立ち返ることになり、しかも両者はそのようなしかたでへだてられるとともに、指さすという行為によって一線で結ばれています。これは、この時、この場所での、花と我との一回限りの出会いにおいて、「法」が生きられているということにほかなりません。 さらに西谷は、そうした「原本的事実」の現成を、丈草の「さびしさの底抜けて降るみずれ哉」という句によって明らかにしようと試みていました。、「さびしさ」という心の気象は、センチメンタリズムに浸ることから遠く離れた、いわば「自心返照」の「開け」として理解できるということを、著者は明らかにしようとしています。

Posted byブクログ