憂世と浮世 の商品レビュー
河竹黙阿弥の曾孫であり、日本伝統演劇の研究者である著者が、能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎の魅力を、わかりやすいことばで読者に案内している本です。 日本の伝統演劇を順番に紹介していく構成になっていますが、「憂世と浮世―世阿弥から黙阿弥へ」というタイトルが示しているように、能に見られ...
河竹黙阿弥の曾孫であり、日本伝統演劇の研究者である著者が、能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎の魅力を、わかりやすいことばで読者に案内している本です。 日本の伝統演劇を順番に紹介していく構成になっていますが、「憂世と浮世―世阿弥から黙阿弥へ」というタイトルが示しているように、能に見られる中世的な「憂世」観から近世江戸の「浮世」観への展開を軸として叙述が展開されています。 この世が思いのままにならないことを示す「憂世」の思想は、平安時代の終わりから中世にかけて広まった仏教の無常観に根ざしています。ところがこうした発想は、江戸時代に入ったころから、どうせはかない「浮世」ならばなりゆきにまかせようという、開きなおりにも近い現実主義へと変わっていきました。貴族的な現世否定の厭世思想から庶民的な現世肯定の享楽主義へのこうした転換を、著者は能から歌舞伎へといたる展開のうちに見ようとしています。 さらに著者は、こうした日本の伝統演劇と西洋演劇との違いについても触れています。かつては、日本の演劇には「ドラマ」がないという批評がなされることがすくなくありませんでした。しかしこうした見方は、西洋の演劇をスタンダードとみなし、それ以外の形態の演劇を認めようとしない態度に基づいていると著者は批判します。西洋の演劇は、「物語」が優位を占める「ドラマティック」な演劇であるのに対して、能、狂言、浄瑠璃、歌舞伎などの日本の演劇には、それぞれに固有の俳優の型や舞台様式が伝承されていると著者は指摘し、こうした特徴から、日本の伝統演劇を「シアトリカル」な演劇と規定することができると主張します。そのため日本の演劇はことばだけでは完結せず、舞台表現全体として観客の官能に訴えるものとなっていると著者は論じています。
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