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岩波講座 日本通史(第12巻) の商品レビュー

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2009/10/04

笠谷和比古は「習俗の法制化」において近世社会を法制という視点から概観している。十七世紀の徳川時代の法的世界における制定法の位置と役割は極めて限られたものであり(対朝廷・公家の「禁中並公家諸法度」、対大名の「武家諸法度」、対寺社の種々の寺院法度)、一般庶民にとっても、武家中心の領主...

笠谷和比古は「習俗の法制化」において近世社会を法制という視点から概観している。十七世紀の徳川時代の法的世界における制定法の位置と役割は極めて限られたものであり(対朝廷・公家の「禁中並公家諸法度」、対大名の「武家諸法度」、対寺社の種々の寺院法度)、一般庶民にとっても、武家中心の領主にとっても、慣習や先例が法規範の中心をなしていた。しかし十七世紀後半に見られた社会の著しい経済的発展はその構造を大きく変化させ、同時に従来には見られない複雑な紛争を社会の各分野に頻発させていった。それに対処するために法制の整備が要請され、『公事方御定書』という大きな画期をなすのである。徳川吉宗は、慣習法・判例法の段階を脱して成文制定法の体系を構築したとするのである。 また黒住真は「儒学と近世日本社会」において近世徳川社会における、儒学・儒者の位置と特徴の規定を試みている。近世徳川社会において、儒学という分野は、仏教などに比べるとまったくの新参者であり独自の資産や背景がほとんどないところからのスタートであった。しかしそれは地位や所有と直結して権威ある分野として自負されてしまった場においてはあり得ないような、さまざまな儒学上の試みを生むことになったのである。もともと中国・朝鮮では儒学は科挙との結びつきから社会的権力と強固に結びついている。それは試験という装置によって学問としての正当性・唯一性が保たれているともいえる。しかし近世日本にはそれに代わるような試験制度は存在せず、よって何が〈正しい〉かはそれぞれの思想家に委ねられることになる。それが近世全般を通して存在する論争史の理由であり、元来の正統的儒学を越える要素の導入に繋がっているのである。林羅山における日本史学・日本文学・神道、山鹿素行における兵学・和学、山崎闇斎における神道、伊藤仁斎における町衆的生などはその一例であり、その「儒学的いとなみ」は心学・国学・折衷学・洋学へともつづいていく。こうした儒学の非特権性は、もちろん儒者という存在についても同様である。つまり幸運にも抜擢される僅少の例は除いて、基本的に儒者はそれ自体の存在として社会の中心部・上層部に位置する為政者ではなく、「市井」に住まう学者であった。しかしそれ故にその学問の受容者を一般民衆へと広げることができたともいえるのである。中国・朝鮮社会の儒学は科挙など高次の装置によってヒエラルキー体制をもたらした。これに対し、近世日本社会の儒学は、そこから導き出される道徳が、誰もがあずかり行う当為として、種々の階層の人々がひろく動因される一般的装置となった。日本儒学は、エリート主義の制度と精神を構築することが総じてできないまま、近世後期の知識の大衆化・公教育化の動きに結合していき、やがては「国民道徳」に流れ込んだのである。

Posted byブクログ