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2015/10/08

第二次大戦の生存者にとって、ラジオは命脈のようなものだった。 神戸に到着したユダヤ人は神戸の日本ユダヤ人協会によって手厚い保護を受けた。1940年の神戸には、約100人ほどのユダヤ人が住んでいて、そのほとんどが織物を扱う貿易商だった。彼らはシベリア鉄道が整備された1920年代から...

第二次大戦の生存者にとって、ラジオは命脈のようなものだった。 神戸に到着したユダヤ人は神戸の日本ユダヤ人協会によって手厚い保護を受けた。1940年の神戸には、約100人ほどのユダヤ人が住んでいて、そのほとんどが織物を扱う貿易商だった。彼らはシベリア鉄道が整備された1920年代から1930年代に、ロシア中央部や東欧から満州国に移り、商品を世界各地に向けて船積みするために神戸に来ていた。そして神戸にいたユダヤ人のほとんどがロシア語を話した。杉原に助けられたユダヤ人のほとんどもロシア語を話した。言葉の壁がないことは本当に快適なことだった。ユダヤ難民が増加すると、神戸のユダヤ人協会は、その限界を認識し、そこで協会のリーダーがニューヨークのJDC(ユダヤ人援助委員会)に助けを求める連絡を入れると、早速救援が寄せられた。神戸のユダヤ人協会は、増え続ける子供難民をグループに分け、できるだけ快適に過ごせるようにと住まいの手配もした。ユダヤ人の嫁入り道具の羽根布団のような掛布団で、畳で眠ったと当時神戸にいたユダヤ人は回想している。難民全員が毎日現金の至急を受けたり、医療面では日本お医者が診察にあたってくれて、代金を受け取らないこともしばしばあった 。但し、日本がアメリカに宣戦布告すると事態は根本的に変化した。日本政府はヨーロッパからの難民を中国に送ることを決定した。

Posted byブクログ