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続続・吉増剛造詩集 の商品レビュー

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2011/07/01

 音符のように標識のように言葉が書かれている、という感じもするし、視覚的なものよりも音の緩急に引き込まれる感じもするし、というより、スピードが非常に速くて、イメージを追いきれない、追い始めようとすると逃げていってしまう、という感覚かな。  駆け回るイメージの起承転結がまるで物語の...

 音符のように標識のように言葉が書かれている、という感じもするし、視覚的なものよりも音の緩急に引き込まれる感じもするし、というより、スピードが非常に速くて、イメージを追いきれない、追い始めようとすると逃げていってしまう、という感覚かな。  駆け回るイメージの起承転結がまるで物語のようにきれいだな、と思った。細部は全体から規定され、また全体は細部から成る。イメージが表象していく細部の激しさが、全体の印象に回収されて完成していく、だから物語として記憶される、そんなところではないのかな。  物語として記憶されるということは、最後の詩行によって世界は一度閉じる、完結してしまうということでもある。けれど、それぞれの詩行を通路にして、同時に世界は開かれている、ということも感じられるような詩だったと思う。  どういうことかというと、つまり、スケール感を感じるためには、視界に収まりきったひとつの世界を感じられなければならないわけで、視界の限界性との差によって、スケールは規定される。そういう意味では、今目にしている世界は、それぞれひとつ、視界の限界によって閉じられた世界(というといいすぎかもしれないけれど)でしかない。だけどそれだけでは、世界は常に視界の限界に制限された箱庭みたいなものとしてしか感じられなくなるわけで、それは実際の感覚とは矛盾する。一定以上のスケール感というのは、視界の限界にさらに延長された表象があるという感覚を伴うもので、意識は確かに知覚された世界の映像以上のものに、実在性を感じ得る。ただしそれも無制限であっては、スケール感に結びつかない。無限は世界の像を結ばないからだ。無限は、実在するにせよしないにせよ、観念的にしか知覚できないはずだし、しかも、それが独立的に存在するにせよしないにせよ、有限の否定形でしか、われわれには表現し得ない、それと同じで、無限に関してありありとした実在性を感じるようにできていないわれわれは、提示された無限から大きさを感じることはできない、せいぜい無限への漸近線としてしかそれは理解されないし、またそれも漸近線であるという言及によってその運動の永続を想定するという、ある意味での運動の固定化を通じてしか認識され得ない。閉じつつ、開く。 「どこまでも続いているのだろう」ではなく、「どこまで続いているんだろう」。  世界を完成させつつ、その構成要素の広がりを、どこまでも辿らせようとする、そうしたスケール感。完成は、物語によって。広がりは、イメージによって。そうして組み上げられたオブジェの有限な大きさ。有限でありながら果てを知覚できない大きさ。知覚を超えていながら決して無限に到達しないような、漸近線としての言及を不可能にするような、閉じつつ、開く。  まあつまり、そんなものを感じながら、読ませていただきました。すごかった。

Posted byブクログ