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禅と宗教哲学 の商品レビュー

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2018/07/04

自然と人間と超越の三者がそこにおいて現成する場である「開け」の実相について考察を展開している本です。 著者は、西田幾多郎や鈴木大拙らによって開かれた禅の思想的立場に定位して議論をおこなっています。このばあいの「禅」は、特定の宗派を意味するのではなく、上述の「開け」へと参究する思...

自然と人間と超越の三者がそこにおいて現成する場である「開け」の実相について考察を展開している本です。 著者は、西田幾多郎や鈴木大拙らによって開かれた禅の思想的立場に定位して議論をおこなっています。このばあいの「禅」は、特定の宗派を意味するのではなく、上述の「開け」へと参究する思想的立場を意味しており、それゆえキリスト教やホワイトヘッドのプロセス神学などとも共鳴しあう内容を含んでおり、本書でもそれらの思想についての考察がおこなわれています。 ただ、著者自身がそうした「開け」へとみずから参究していくプロセスが、本書の議論からは明瞭に見えず、相対的な「有」の次元にとどまっている自然科学などの立場との違いが、やや図式的なしかたで語られているように感じてしまいました。たとえば阿部正雄の「非仏非魔」の立場は、久松禅学の思想的立場にみずから参究していくなかでつかみとられた真実が語られています。そこでは、久松禅学の到達点がただ図式的に理解されているのではなく、いわば百尺竿頭に一歩を進めるしかたで久松禅学へと参究するひとの「主体的主体」が読者にも明らかになっています。おそらく著者が言及する西谷啓治の「事々無碍法界」も、西田幾多郎の「絶対無」から深く学びつつも、みずからの足でなお一歩を進めようとするところに、主体的な真実がつかみとられたのではないかと考えるのですが、著者の議論にはそうした厳しさに欠けるところがあるのではないかという気がしてなりません。

Posted byブクログ