1,800円以上の注文で送料無料

すべての火は火 の商品レビュー

4.6

6件のお客様レビュー

  1. 5つ

    3

  2. 4つ

    2

  3. 3つ

    0

  4. 2つ

    0

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2018/07/14

後書きを読んでみて、そういう設定だったのね、と改めて複雑さを知り、やっぱり全然読み解けてないな、と。もしかして私はこの人の作品は向いてないのかも。「病人たちの健康」年老いた母親を思いやり、真実を伝えられない中、本人は気づいていて、気を使わせて悪かったなどという。この人の表現する幻...

後書きを読んでみて、そういう設定だったのね、と改めて複雑さを知り、やっぱり全然読み解けてないな、と。もしかして私はこの人の作品は向いてないのかも。「病人たちの健康」年老いた母親を思いやり、真実を伝えられない中、本人は気づいていて、気を使わせて悪かったなどという。この人の表現する幻想って今生きている現実の生活にピタリ寄り添っていると思う。しかしそれが鮮やかすぎるため、現実の方がおざなりに置いてきぼりにされているような。それがとてつもなく悲壮感を表しているので苦しい。

Posted byブクログ

2018/01/04

 8編からなる短編集。 「南部高速道路」  彼の代表的な短編ということになるのだろう。  恐ろしいまでの高速道路の渋滞によって、原始的な共同体が築かれ、いつしかそんな共同体に馴染んでいく人々。  渋滞が解除されると、共同体(もしかしたら共同の幻想のようなもの)があっとい...

 8編からなる短編集。 「南部高速道路」  彼の代表的な短編ということになるのだろう。  恐ろしいまでの高速道路の渋滞によって、原始的な共同体が築かれ、いつしかそんな共同体に馴染んでいく人々。  渋滞が解除されると、共同体(もしかしたら共同の幻想のようなもの)があっという間に崩れていく。  最後の一文は、文明社会に対する皮肉とも悲哀ともとれる。 「病人たちの健康」  切なくなるような物語。  知られてはいけない息子の死と、死にゆく母親。  それらを取り囲む生き残った周りの人々の葛藤と苦悩。  母の死後に届く息子からの手紙の不思議はまるで嘘と真実が交差してしまったかのよう。  母親は間違いなく「私」ではなく「私たち」は「もうこれ以上迷惑をかけないから」と言い残して亡くなっていった。  それは嘘をつかれていたはずの母が、実は全てを知っていた上で、回りの人々に嘘をついていたことへの謝罪も兼ねていたのかも知れない。 「合流」  解説を読むと、この作品はキューバ革命の英雄である、エルネスト・チェ・ゲバラを主人公とした作品とのこと。  戦場における極限状態に近い状況に置かれた男の戦争途中における回顧録的内容。  この男が、この戦争が、どういう顛末を迎えるのかまでは描かれていない。  時間軸が微妙に前後する箇所があり、読み進めるための緊張感を嫌でも強めてくれる。 「顔を引き剥がして差し出してくるルイス」という表現が、身に覚えのある罪悪感にも似て、不気味でもあり恐怖でもある。 「コーラ看護婦」  虫垂炎、つまり盲腸の手術を受けることになったパブロ少年とその母親、パブロ少年の看護を担当するコーラ看護婦と彼女と男女の関係にあるマルシアル医師、手術の執刀医(脇役程度だが重要な独白をする)、各自の独白が段落の変更なく交互に、というよりも次々と順繰りに登場してくる作品。  思春期の少年患者と、新米の若い看護婦の話であり、自意識過剰な独白が続くのだけれど、何とも言えない読後感が強烈に残る終わり方である。 「正午の島」 「あれ?」と思わせるようなセンテンスが登場し、その後一瞬にして視点が、風景が、話の中心が遷移してしまう内容はやはり何度読んでもはっとさせられる。  解説にアンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」を思い出させるとあるが、そういえば「対岸」に収録されていた「レミの深い午睡」も似たような題材の作品だったなと思い出した。 「ジョン・ハウエルへの指示」  芝居の舞台というのはやはり非日常的で不条理な場であるのに違いなく、いったんその舞台に足を踏み入れ、その非日常的で不条理な場で言葉を交わしてしまったために、結局はその場から逃れられなくなった男の話、といったところだろうか。  なぜ彼は逃げるのか、そもそも彼は追われているのか、あの女性は本当に殺されたのか、渡るべき川は何を意味しているのか。  答えは提示されてはいないが、提示されていない面白さにどっぷりと浸かることが出来る。 「すべての火は火」  ローマ時代の円形闘技場での剣闘士同士の闘いと、現代のパリにおいて電話を介して行われる男女の決別の瞬間とその後の別の女性との逢瀬と顛末。  時空の全く異なる話が交互に現れて最後に一つに重なる。  こういう風に書くと、例えば村上春樹の「世界の終りと~」等を思い出す方もいるだろうが、「世界の終りと~」のように、二つの世界が判りやすい形で平行に進むのではなく、まさに混在した形、入り乱れたような形式で物語が進む。  タイトルの「すべての火は火」はまさに的を射た表題だな、と思わせてくれる。 「もう一つの空」  ある男性がブエノスアイレスにある通りを歩いていると、ふとパリにあるヴィヴィアンヌ回廊に出てしまい、そこでジョジアーヌという女性と出会う。  以降はブエノスアイレスの生活とヴィヴィアンヌ回廊での生活を行き来することになる。  ブエノスアイレスの世界には婚約者や男性の母親が、ヴィヴィアンヌ回廊の世界では、絞殺魔ローランや正体不明の南米人が登場する。  それぞれの人物、それぞれの世界、なぜ二つの世界を行き来するようになったのか、そういった謎は一切不明のままに物語は終わる。  解説を読むと「そういう読み方もあるかな」と思えるのだが、そういうことでもないだろう、という釈然としない気持ちもある。  いずれにしても、何か大切なものを失くしてしまったのだ、という意味不明な喪失感が読後にずっしりと残ったように思う。

Posted byブクログ

2015/01/25

手のひらの上で完全に完結する小さな異世界。 南部高速道路 病人たちの健康 合流 コーラ看護婦 正午の島 ジョン・ハウエルへの指示 すべての火は火 もう一つの空

Posted byブクログ

2013/04/07

ラテン・アメリカ文学と一口にいっても北は北米西海岸に接するメキシコから南は南極に近いアルゼンチンまで、人種、気候はもとより歴史、文化が異なるのは当然のこと。それを一括りにしてしまうのには無理があると思うようになったのは、コルタサルを読むようになってからだ。アルゼンチンという国は旧...

ラテン・アメリカ文学と一口にいっても北は北米西海岸に接するメキシコから南は南極に近いアルゼンチンまで、人種、気候はもとより歴史、文化が異なるのは当然のこと。それを一括りにしてしまうのには無理があると思うようになったのは、コルタサルを読むようになってからだ。アルゼンチンという国は旧大陸からの移民によって創られた国である。首都ブエノスアイレスはパリを真似て建設された。世界三大オペラ劇場の一つが建ち、南米初の地下鉄が敷設されたのもパリへの憧憬あればこそ。エリート層によって主導されたアルゼンチン文学は高踏的、芸術的で、土着的な風俗よりもヨーロッパ世界を志向しているのは、ボルヘスを見たらよく分かる。紛れもなくラテン・アメリカに属していながら、腰より上の部分では西欧社会を生きるように運命づけられているのが、アルゼンチンの作家なのだ。 二つの世界を生きるという意味では、巻末に置かれた「もうひとつの空」が象徴的である。ブエノスアイレスに住む「僕」は、あやしげな店が犇めき合うグエメス・アーケードを歩き回るうちに、いつの間にかパリのヴィヴィアンヌ回廊に出てしまう。アーケード(回廊)がトンネルの働きをし、「僕」は二つの世界を往還しながら二人の女性と付き合い、現代の夏のブエノスアイレスとギロチンによる公開処刑が行われていた当時の冬のパリという異世界での二重生活を送ることになる。アルゼンチン人ならではの引き裂かれたアイデンティティーを濃厚に漂わせる一篇である。 表題作の「すべての火は火」もまた相異なる二つの世界が同時進行する。ひとつはローマの円形闘技場、剣闘士と総督夫人は恋仲であり、総督もそれを知っている。強敵のヌビア人剣闘士との死闘が今しも始まろうとしている。もうひとつは現代、パリのアパートの一室が舞台。不実な男に愛想を尽かした女は電話で自殺をほのめかすが、別の女といる男はまともに取り合わない。どちらも男女の三角関係が主題で二つの物語は相似形をなす。二つの糸が綯い合わされ一本の紐になるように、二つの物語が交互に語り継がれ、最後には一体化してしまう。はじめは段落ごとの交代だったものが、事態が緊迫感を増し始めると、文レベルの交代となってゆくのだが、ひとつの言葉やフレーズが異世界の橋渡しの契機となり、物語の進行はいささかも停滞しない。バルガス=リョサにも同様の手法を用いた作品があるが、あちらは長篇。短編でこの技法を駆使してみせるコルタサルはまさに短編の名手の名に相応しい。 他に六篇の作品を収めるが、いずれもコルタサルらしい技巧を凝らした粒揃いの傑作短篇ばかり。個人的にはパリ名物の渋滞をファンタジックに描いてみせた「南部高速道路」がおすすめ。大規模災害に見舞われたとき、人は連帯感を抱き、見知らぬ者同士が会話したり、食料や物資を融通しあったりするものだ。プジョー404に乗った技師は、ある日曜日の午後、南部高速道路を通ってパリに戻ろうとするところを渋滞につかまってしまう。なかなか収束しない渋滞に、はじめは苛立っていた人々が次々と起きる難題を解決するために協力して立ち向かうようになる様子をユーモアを交えて描いたもの。ただ、時間の進み方が尋常でない。渋滞の最中に季節が何度もかわるのだ。長引く事態にブラック・マーケットが生まれたり、調達屋が現れたり、最後には死人まで出るという戦時を思わせる状況下に、大江健三郎がかつて「広大な共生感」と呼んだような感情がそこに現出する。仲良くなったドーフィヌに乗った娘とのこれからの生活を夢見かける技師だったが、渋滞が解消されるに連れ、人々は…。 ことは渋滞に限らない。誰にでも覚えのある経験を、極限状態に追い詰めることで生まれる凝縮された感情のカタルシス。日常の中に非日常を奔出させるコルタサルの真骨頂。このなんともいえない結末の持ち味がたまらない。

Posted byブクログ

2010/07/27

[ 内容 ] 斬新な仕掛けと驚嘆すべき技巧に満ちた、脱出不可能の8つの迷宮的小説空間。 [ 目次 ] [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性...

[ 内容 ] 斬新な仕掛けと驚嘆すべき技巧に満ちた、脱出不可能の8つの迷宮的小説空間。 [ 目次 ] [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]

Posted byブクログ

2009/10/07

技巧的、という言葉が直ぐに浮かんでくる。が、技巧とか何よりも、埋め込まれたイコンに気付いても見逃してしまっても、何かを喚起する固有名詞に馴染みがあろうともただの抽象にしか過ぎなくとも、たった一つフリオ・コルタサルを読んでいて読み違えないもの、それはスリップという感覚であろう。 ...

技巧的、という言葉が直ぐに浮かんでくる。が、技巧とか何よりも、埋め込まれたイコンに気付いても見逃してしまっても、何かを喚起する固有名詞に馴染みがあろうともただの抽象にしか過ぎなくとも、たった一つフリオ・コルタサルを読んでいて読み違えないもの、それはスリップという感覚であろう。 表題作である『すべての火は火』のように巧みに時と場所の異なる物語の舞台の間で起こるスリップは言うまでもないが、『南部高速道路』のような現実と非現実の隙間をするりと越えるスリップも、フリオ・コルタサルは易々と起こしてみせる。そのスリップは「いつの間にか」といってよい程滑らかであるのだが、それを支えているのは、どちらの舞台にもあるリアリティということかも知れない。 それは同時にどちらの側も虚構による普遍的なリアリティ(すなわり突き詰めれば非現実)がある、ということでもある。そんなことを言うと、リアリティとは何かということを少し難しく考えなければならないけれど、誰もが現実的だなと感じるものは非現実でしかあり得ない。一つ言えるように思うのは、フリオ・コルタサルが物語の中に埋め込んだ時や場所を示す記号が、物語を一つの背景の中で切り取っているようであるけれど、実際には現実に存在した物語からは独立しており、物語自体は背景と無関係とすら見える、ということだ。それが逆にリアリティを担保するように思う。 もちろん、その背景を匂わせることで作家は言葉を尽くさずとも読むモノの頭の中にあるイメージを投げ込むことができる。それによって読むモノは勝手に何かを想像してしまうのだが(それがリアリティという感覚と結びつく)、その語っていない部分を取り除いてみると、作家が言っていることは案外シンプルなことであるような気がしてくる。その単純な解り易い現実(そして少し厄介だけれども、そんなものが実際にはあり得ない、ということに気付けば、そこからリアリティと感じるものから非現実が浮かび上がってくる)が残されること、この周囲の状況が目まぐるしく変化する現実のなかで余り変化していかない感情を持ち続けていくような感覚の読書となること、そのことが小気味よい。 どこかしらバラードを思い出させるような印象が残ること、それはフリオ・コルタサルのスリップがそうであるように、人生の曲がり角や分岐点はそれを通り過ぎている時にはそうと気付かない、ということをバラードが思い出させてくれるからなのかも知れない。但しバラードはジャンプが巧みな作家ではあるけれども。

Posted byブクログ