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記憶の肖像 の商品レビュー

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4件のお客様レビュー

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2018/11/05

初エッセイ集というだけあって、まだ多少スタイルが固まりきっていない感じも。 淡路島の話がなんとも美しい。神戸に関する長めの文章が多く面白い。文章論も後の岩波の単行本のアイデア的なところはこのころから ドイツの学会を訪れた頃の中井がだいたい同い年くらいか

Posted byブクログ

2012/09/12
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

・ユダヤ人との付き合いは難しいと言われるが、十二世紀の偉大なユダヤ人哲学者マイモニデスの存在を知っているかどうかで、はっきり違うと思う。この名は一つのキー・ワードだ。これを畏敬の念を以て口にしただけで相手の態度ははっきり変わる。 現代ギリシャには二人のノーベル賞受賞者を含む大詩人がいる。これを知ると知らないとでは大違いである。アリストテレスやプラトンでは駄目である。古代のことを高校で習ってはいるが、現代ギリシャ人は外国人が古代ギリシャばかり賛美するのにうんざりしているのである。 動機が何であれ、マイモニデスや現代ギリシャの大詩人を多少でも知れば、それを生んだ民族への畏敬が生まれる。また、理解しようとする外国人の心根は喜ばれる。彼らは、この文化英雄たちが普遍性を持っていることを確信し、不当に軽視されていると思っている。 しかし、ロシア人のプーシキンへの畏敬となると違う。プーシキンはほとんど神であって、外国人がうかうか土足で踏み込めない聖域である。邦訳があるということさえも冒涜と感じられているようだ。ロシア語で無ければプーシキンが分かるはずはないとロシア人は言う。ロシア人と分かり合うのは絶望的だと感じる時だ。しかし、これは日本人が俳句を語る外国人に対する態度に少し似ている。 ・「春、王の正月戊申、朔、宋に隕石あり、五つ。是月、六鷁(げき)退飛して宋の都を過ぐ。」なぜ、まず隕といい、次に石と言うか。隕石とは記聞(聞こえたことの記録)である。まずなにかが隕(お)ちた音が聞こえる。次に調べてみて石と知る。次に数えてみると五つである。だから、隕石…五という文になるわけだ。…なぜまず六といい、次に鷁というか。六鷁退飛とは記見(見えたことの記録)である。まず何かが飛んでゆくのが見える、六つである。良く見ると鷁という鳥である。なおも良く見ると後方へ飛びしさってゆく。だから六鷁退飛という文になるわけだ。 どの言語でも、発話には、既知部分と未知部分を含む。全くニュー・メッセージだけでは伝達が不可能である。一つの言語における未知部分と既知部分の比はほぼ一定であり、この比が最大であるのは日本語であるという。法律家の文章は、しばしば悪文の例に出されるが、すべての状況的な要素を列挙しようとするために、そうならざるを得ないのである。私は日本語の作文には「五石六鷁の作法」が重要であると思っている。

Posted byブクログ

2011/06/01

精神科医によるエッセイ.私は知らなかったが,ギリシャの現代詩の訳業などもある人のようだ.全体の半分を占める精神科の仕事の現場や周辺を題材の中心にした第三部が一番読み応えがあって,精神医学にとどまらない示唆に富む. 最後におかれた日本語に関するエッセイの中で、日本語の曖昧さを回避す...

精神科医によるエッセイ.私は知らなかったが,ギリシャの現代詩の訳業などもある人のようだ.全体の半分を占める精神科の仕事の現場や周辺を題材の中心にした第三部が一番読み応えがあって,精神医学にとどまらない示唆に富む. 最後におかれた日本語に関するエッセイの中で、日本語の曖昧さを回避するために「未知を既知に織り込んでゆく順序の自然さに気をつけること」と,「述語が文の働きから言えば中心になるはずなのに,文末におかれるということから生じる不都合をどう修正するか」が大切であるという指摘には感心した.

Posted byブクログ

2011/01/10

 この本に出会ったのは、大学1年の時である。確か、姉が何かの機会に薦めてくれたのだ。大学の図書館で見つけて、借りてきた。そしてこの本が、私の人生の、「それ以前」と「それ以後」を大きく分けることになった。  そういう本の多くがそうであるように、最初の読後の印象はそれほど強烈なもので...

 この本に出会ったのは、大学1年の時である。確か、姉が何かの機会に薦めてくれたのだ。大学の図書館で見つけて、借りてきた。そしてこの本が、私の人生の、「それ以前」と「それ以後」を大きく分けることになった。  そういう本の多くがそうであるように、最初の読後の印象はそれほど強烈なものではなかった。みすず書房特有の、淡麗な装丁とあいまって、抱いた感想は淡あわとした、やわらかく穏やかなものだった。書いてあることの半分も理解できていなかったと思う。  そこに広がっていた世界は、当時の私の抱いていた内的世界とは、あまりにもかけ離れていたものだった。当時の私は、幻想小説を主に読み、ひたすらに様々な本を食べるように摂取してそこに書いてある事項を石版に刻むように暗記すれば「知識が得られた」とする、あの年代あの時代によくいる文学少女だった。現実と幻想の区別は曖昧で、他人と本当の意味では交流することもなかったと思う。  この本のエッセイは、どれも物静かで優しく、全てを許容するようなたたずまいですらあったが、その優しさに惹かれて何度も読み返すうちに、私はしたたかに打ちのめされた。真の教養、真の知識、真の人間への理解と愛、本当に美しいことばの、稀有な実例が、次第に私の目の前に立ち現れるようになった。自分は、いつかこういう境地に到達することができるだろうかという自問すら愚かに思えたのを覚えている。  そんな風に圧倒されたにも関わらず、しかしこの本はどこまでも優しくて、開くたびに私の心は慰められた。  そして私は幻想小説やライトノベルズを読む量が極端に減っていった。私の中の何かが変わって、そういうものを必要としなくなったのだと思う。  そんな個人的なエピソードはさておき、このエッセイ集は珠玉という言葉が色あせて見えるほど、智慧に満ちた本である。  この本の出版後も、中井久夫は次々とエッセイ集などを出版していくが、後に大きなテーマとなっていったものの種は、この最初のエッセイ集に多くはらまれている。1992年に書かれたこの本は、全く古びず、20年近く経った今も、戸惑い途方に暮れて立ち尽くした時に、ひとに差し出される水のようなものであると思う。

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