植木等と藤山寛美 の商品レビュー
テレビとは 「見て笑うものだ」というものだった。 植木等 の 独特な笑いは 瞬間的にひきつけられた。 底抜けに明るいのである。 渥美清の寅さんが 1969年から始まったが それはほとんど見なかった。 『笑う』と言う行為は テレビを通じてであり・・・ この小林信彦の 「植木等と...
テレビとは 「見て笑うものだ」というものだった。 植木等 の 独特な笑いは 瞬間的にひきつけられた。 底抜けに明るいのである。 渥美清の寅さんが 1969年から始まったが それはほとんど見なかった。 『笑う』と言う行為は テレビを通じてであり・・・ この小林信彦の 「植木等とその時代」を読みながら 少年のころを思い出した。 私たちの下の世代は ドリフターズであるが・・・ 私のときの笑いのヒーローは 植木等だった。 植木等は1926年(大正15年)生まれ。私の親父と同年うまれである。 ジャズからコメディアンが生まれると言うのが・・・ その頃の時代のようだった。 フランキー堺がドラマーだった。 谷啓が トロンボーンでは ジャズ界では有名だったと言われる。 クレージーキャッツが面白いのは 舞台、テレビ、そして 映画 と小林信彦は言う。 植木等は 観客をなめきったような ふてくされたような それで、どこか ひょうきんな・・・いくつもの顔を持っていた。 植木等に出会ったのは シャボン玉ホリデー(1961年から1972年)だった。 なんだろう・・あの軽さ。 ザピーナッツが名古屋出身で見たので・・・おまけで植木等がついてきた感じ。 ひょっとしたら テレビが好きになったのは 植木等と長嶋茂雄だったのかもしれない。 日本無責任男 と言う映画は 見に行った覚えがある。 小林信彦は 植木等が好きであり、限りなく近い存在として 植木等を見続けた ので、植木等の評価がしっかりしているのがよい。 日本の「喜劇」って なんだろう? を考えてみたい とおもう。 今の笑いが 小さくなっているような気がしている。 規格はずれ がなくなったというべきか・・・ 『無責任』と言う看板を掲げる 喜劇の役者 がいる時代は 喜劇自体も 枠が外れていた。 喜劇役者が 喜劇タレント となり そして お笑いタレントになっていく。 どんどんと小さくなっているようだ。
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