ある神話の背景 の商品レビュー
「生贄の島」に続いて1971年に発表された曽野綾子氏の渾身の沖縄ルポですが、今回は渡嘉敷島で起きた集団自決は、果たして定説通り赤松大尉の命令だったのかという真相に迫る内容です。 著者は赤松犯人説の根拠となる残された資料に当たるうちに、不思議なことに気づきます。 根拠の資料とさ...
「生贄の島」に続いて1971年に発表された曽野綾子氏の渾身の沖縄ルポですが、今回は渡嘉敷島で起きた集団自決は、果たして定説通り赤松大尉の命令だったのかという真相に迫る内容です。 著者は赤松犯人説の根拠となる残された資料に当たるうちに、不思議なことに気づきます。 根拠の資料とされる3種類の文献の肝心なところの描写が一言一句同じだという奇妙さに。 ここから、作家としての勘を働かせながら、残された当時の文献と当事者たちに話を聞いていく。 真相に迫ろうとするこの過程もスリリングで面白いので、是非読んでほしいのですが、最終的には筆者は白黒どちらかという判断を避けています、いや正確に言えば、判断できなかったということです。 それは簡単に言えば、軍隊には軍隊の掟や規律があり、その当時の沖縄軍隊の最優先すべき使命は米軍から沖縄を死守することであり、島民を守ることではなかったという冷たい現実です。 そして軍隊が地域社会の非戦闘員も守るために存在しているという発想は、きわめて戦後的だと指摘したうえで、村人が軍に保護を求めて陣地になだれ込んだ気持ちも自然なら、軍が非戦闘員を陣地内に保護するということもありえなかった、拒否して当然だったともいえるのです。 またそれは島民の命だけではなく沖縄に配属された兵隊たち全員の命も含んでいたということは言うまでもありませんが、日本兵が「敵前逃亡」や「自陣に侵入した敵側のスパイ」という疑いだけで6件も地元住民に刃を向けたという悲しい事実(どの案件も解釈次第では緊急避難的措置だともいえなくもない)や軍隊だけが満足な食事をしているという噂(軍人が餓死しては戦えないという理屈も一理あるが、実際には軍隊の食事も粗末だったし、餓死者も出ている)に怒った一部の人たちが、戦後、赤松憎しの一念で事実を故意誇大に粉飾して赤松犯人説を作り上げたフィクションの可能性も大いにありうるということです。 沖縄のやり場のない怒りや悲しみを慰めるためには憎むべき対象が必要です、その格好のターゲットにされたのが赤松大尉であり、さらにこの背景には、沖縄は常に正しく、本土は悪く、本土を少しでも良く言うものは、それは沖縄を裏切ったのだ、沖縄を痛めつけた赤松隊の人々に一分でも論理を見出そうとする行為はファッショだという一方的な思想こそファシズムではないかと諫めます。 作者は、「殺すより殺される人の方が楽」という精神状態が極限状態では当たり前だったということや、「生きて虜囚の辱めを受けず」という当時の日本人の信念が自決に拍車をかけた点を指摘し、このような考えをさせるに至った本当の演出家は誰だったのかこそを問わねばならないと問題提起する。 そしてその最大の責任者とは、海外での作戦展開のように周囲が敵性国人であることを想定した軍事上の法規を、本土である沖縄の戦場にも何ら変更を加えず持たせた軍事当局の怠慢だったと指摘し、さらに沖縄には非戦闘員も多数住んでいることを十分知ったうえで砲艦攻撃を躊躇なくした米軍であったと怒るが、それさえも戦争という集団発狂という病に誰もが侵されていた結果だと語る。 最後に、赤松大尉が戦後、一方的に悪人にされても口を閉ざしていた一つの理由として、軍命令としなければ自殺した島民への遺族年金がもらえなくなる可能性を危惧していたという点も付け加えておきます。 この本は作者が40歳の時に書いたものですが、極力断定的な言い方を避け、ニュートラルに事実と対峙し、記録に語らせることに徹している仕事ぶりは見事です。 さて現在、自民党総裁選でも憲法9条の2項をどうするという改正議論が俎上に上がっていますが、沖縄で起こった悲劇を繰り返さないために、個々の具体的な反省を踏まえた上で、戦時においても自国民の命を軽視しないという当たり前だが最も重要で本質的なテーマがこの種の議論から欠落しているような気がしているのは私だけでしょうか?
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曾野さんごめんなさい。 わたしは名前のイメージだけで、あなたのことをめそめそ感たっぷりの自分可哀想系キリスト教文学者だとばかり思ってました。 あなたは人の罪に直面しようとするタイプの弱き者であって、ドキュン魂の持ち主というかそそっかしい人でもありました。 まじでごめんなさい。 ...
曾野さんごめんなさい。 わたしは名前のイメージだけで、あなたのことをめそめそ感たっぷりの自分可哀想系キリスト教文学者だとばかり思ってました。 あなたは人の罪に直面しようとするタイプの弱き者であって、ドキュン魂の持ち主というかそそっかしい人でもありました。 まじでごめんなさい。 以下、ひとまずおぼえがき(後で加筆するよ) 極限状態において、自分が義人でいられる自信など欠片も無い。そうした自己認識を終始一貫して語り、だからこそそこにあった事実の欠片の積み重ねによって真実を見出そうと試みた本書には、曾野綾子という人のキリスト者としての謙虚さと強さを感じる。 だからこそ語られる以下の言葉は、ともかく頷くしかなかった。 「或る人間には一分の理由も見つけられないとする思考形態こそ、私はファシズムの1つの特色だと考えている。」 「自分は罪を犯していないという意識があるからこそ、ひとは他人を告発できるのだ。」 そこから「人は誰しも弱いのでキリストに縋りましょう」的な自己憐憫センチメンタリズム(一番嫌いだ)に走るいわゆるクリスチャン文学は数多とあるが、それは自己の弱さに対する開き直りだとわたしは思う。むしろ自分を弱いとすら思っていないのではないか、と感じる時もある。 自分は弱い。 弱いからこそ何をしでかすかわからない。 自分の中にはそうした自分でもわからない闇がある。 他者の中にもあるそうした闇を、己の論理だけで裁く権利があるのか(キリスト教的には「それができるとしたら神しかいない」という反語になる)。 そうした徹底した自己認識だけを頼りに究明しようとした「赤松神話」の真相は、更なる人間性の闇であり謎(集団心理や極限状態、地理的特殊性など多重の要素に包まれた)の中にあった。 そこに至るまでに曾野氏が対面した、特に一部の人々の姿を己の中にもあるかもしれない弱さとして考えるのは、正直かなり抵抗感がある。だからこそ思うのは、当初よりその地平から事実に向き合おうとしていた曾野氏の精神的な強さだ。 そして解説ではヘス君と再会した(笑)。
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