マリー・キュリーが考えたこと の商品レビュー
(2007.06.04読了)(2006.07.15購入) 原子力発電の廃止を唱えて活動していた高木さんの書いた本です。 キュリー夫人と原子力はどう結びつくのかと考えてしまったのですが、キュリー夫人がノーベル賞をもらったラジウムは、強力な放射線を出し続ける物質だったんですね。 原子...
(2007.06.04読了)(2006.07.15購入) 原子力発電の廃止を唱えて活動していた高木さんの書いた本です。 キュリー夫人と原子力はどう結びつくのかと考えてしまったのですが、キュリー夫人がノーベル賞をもらったラジウムは、強力な放射線を出し続ける物質だったんですね。 原子番号の大きな原子は、十分に安定ではなく、崩壊することでより安定な原子に落ち着こうとする。このときに放出されるエネルギーが、放射線というものである。(79頁) ラジウムの発見が「核」の世界を開くことになったわけです。 マリー・キュリーの小さいときの名前は、マリア・スクロドフスカです。ポーランドの人です。当時のポーランドは、ロシアの支配下にありました。 1891年11月、24歳目前のマリアは、パリの北駅に降り立ちました。ソルボンヌ大学で学ぶためでした。 猛烈な勉強の結果、1893年の物理学学士試験を首席でパスした。 1894年、マリアは、ピエール・キュリーと出会った。このときピエールは35歳。 1895年7月26日、マリアとピエールは結婚した。ピエール・キュリーは、パリ生まれのフランス人です。 ピエールは、パリの市立物理化学校の教授であった。マリーはここで一緒に研究しながら教員資格をとった。 1903年11月、アンリ・ベクレル、ピエール・キュリー、マリー・キュリーの3人にノーベル物理学賞が授与された。放射能と放射性元素の研究に対するものです。 ピエール・キュリーとマリー・キュリーは、ラジウムの研究で、多量の放射線を浴びることになり、健康を害していた。このときにはまだ、放射能の危険性は知られていなかった。 マリー・キュリーは、1911年にラジウムの発見・研究によって、ノーベル化学賞を受賞した。ノーベル賞を2度受賞していたんですね。 1934年7月4日、マリーは、死去。66歳。 1935年、マリーの娘、イレーヌがノーベル化学賞を受賞している。 現代科学は、研究成果が人間社会に与える影響を考慮しながら進めないといけないはずなのですが、影響の善し悪しを判断できる人が誰もいないように思えます。 そうなると、研究者自身が自己責任でやらざるを得ず、悪い影響が出たときは、処罰を受けるということになるのでしょう。 著者 高木 仁三郎 1938年 群馬県生まれ 1961年 東京大学理学部化学科卒業 1975年 原子力資料情報室設立に参加 1987年 原子力資料情報室代表(98年まで) 2000年10月8日 逝去 専攻は原子核化学(理学博士) (2007年6月19日・記) ☆関連図書(既読) 「原子力神話からの解放」高木仁三郎著、光文社、2000.08.30 「原発事故はなぜくりかえすのか」高木仁三郎著、岩波新書、2000.12.20 (「BOOK」データベースより)amazon みなさんはラジウムの発見でノーベル賞を受賞したマリー・キュリーを知っていますか。祖国ポーランドを出てパリに学び、20世紀の核の扉を開いたかげには、最悪の困難にも挑む強い意志がありました。夫ピエールや娘たちへのこまやかな愛情にもふれて生涯をたどり、その業績が今日いかに生きつづけるかを語ります。
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