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精神病理からみる現代思想 の商品レビュー

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2020/09/26

精神病理からみる現代思想 (和書)2012年08月06日 19:51 1991 講談社 小林 敏明 柄谷行人さんの書評で『フロイト講義〈死の欲動〉を読む』が紹介されていて図書館を検索したが県内では蔵書無しと表示されました。それでこういった本はリクエストすることにしていて図書館...

精神病理からみる現代思想 (和書)2012年08月06日 19:51 1991 講談社 小林 敏明 柄谷行人さんの書評で『フロイト講義〈死の欲動〉を読む』が紹介されていて図書館を検索したが県内では蔵書無しと表示されました。それでこういった本はリクエストすることにしていて図書館リクエストをしました。小林敏明さんの他の著書を検索し取り敢えずこの本を借りてみた。そういえば小林さんの著書は前にも一回柄谷書評に出ていて読んだ記憶があるけど失念していました。検索していて思い出しました。 木村敏さんの影響を非常に受けているそうで、なかなか面白そうな人です。他の著作も読んでみたい。

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2012/09/15

課題は現象学、言語学、精神分析らの交接点にあるということの確認といくつもの新たな教示。木村学派本流か?

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2012/09/02

今となっては真新しい点はない。ヴィトゲンシュタインの前期か後期かという問題に帰着するとも言えるし、結局はその点を問題としないと病者によっかかって思想を語るということになってしまう。臨床と理論はかくして乖離していくのかしらん。

Posted byブクログ

2011/11/29

ブランケンブルクは、私たちが生きている世界から存在感が欠落してしまう離人症を、「一人の人間の自我へと分極されてくる以前の世界との前志向的な関わり」の解体として論じた。彼らは世界のさまざまなものごとの対象的意味や内容が分からないのではない。世界と自分との実感を伴った関係そのものが不...

ブランケンブルクは、私たちが生きている世界から存在感が欠落してしまう離人症を、「一人の人間の自我へと分極されてくる以前の世界との前志向的な関わり」の解体として論じた。彼らは世界のさまざまなものごとの対象的意味や内容が分からないのではない。世界と自分との実感を伴った関係そのものが不確かになっているのだ。 この「前志向的な関わり」としての自明性を、「あいだ」という概念で捉えたのが木村敏だった。人間は、相手に対して「気がね」したり「気を使っ」たりして、他者との「あいだ」を生きている。この「あいだ」は、すでに出来上がっている主体の間の連合のようなものではない。「何」とか「誰」とかが明確にされる手前にあって、それらの背景をなしている匿名の地平のようなものと理解されなければならないと著者はいう。 精神病のさまざまな症状は、こうした自己と他者との成立を根底から支えている「超越論的間主観性」の危機として理解される。自分の主体が他者によって占領されてしまっているという「させられ」体験や、自分の思考が他人に「つつぬけ」になっているという妄想、あるいは誰かに監視されているとか誰かから命令されているという妄想は、自己と他者という「図」を背後から支えていた匿名の「地」が、突如として表に現われ、それに翻弄される経験にほかならない。 さらに著者は、こうした自己と他者との背後にある匿名的な地平を、シニフィアンとシニフィエの区別が成立する以前の「根源的沈黙」と捉え返す。私たちの思考の背後にあって、分節化された明確な意味をもつ以前の根源的沈黙の次元が表面にせり出してくるとき、ラカンによって「シニフィアンの戯れ」と名づけられたような現象が生じるのである。 最後に著者は、いまだ確固たる意味を形成していないシニフィアンの戯れを、著者自身の提唱する〈ことなり〉という言葉で説明する。シニフィアンの戯れのような不安定に揺れ動く差異の運動は、やがて安定して〈ことわり〉(理)が生まれる。〈ことなり〉とは、〈ことわり〉を分泌する潜在的な運動を意味する。〈ことわり〉が「ひび割れ」を起こすとき、それまで安定していた私たちの日常の世界は解体する。妄想とは、解体の危機に瀕した〈ことわり〉を、私的に「筋をつける」ことでかろうじてつなぎとめようとする試みにほかならない。

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2011/07/07

シニフィアン、シニフィエ、観念知、実践知、超越論的間主観性=間、世界―内―存在、情態性、日常性、気分、頽落、エポケー、超越論的主観性の絶対性⇔実在性、現象学的還元、離人症、自明性の解体、沈黙、プレコックス感、被投的投企、第一次的記憶、過去志向、未来志向、思考察知、考想伝播、ラング...

シニフィアン、シニフィエ、観念知、実践知、超越論的間主観性=間、世界―内―存在、情態性、日常性、気分、頽落、エポケー、超越論的主観性の絶対性⇔実在性、現象学的還元、離人症、自明性の解体、沈黙、プレコックス感、被投的投企、第一次的記憶、過去志向、未来志向、思考察知、考想伝播、ラング、ランガージュ=分節、バロール、まなざし、萌芽的所記=萌芽的能記、意味志向、無意識、意識されないもの、無意識的なもの、夢内容、夢思想、圧縮、ずれ、集合人物、混合人物、合成、二重拘束、同時的内省、無意識≒言語的、失語、選択、結合、相似性、合理性、メタファー≒シニフィエの相似性、メトニミー=シニフィアンの隣接性・相似性、述定的、シニフィアンの戯れ、感覚失語=相似性失語、運動失語=隣接性失語、パラディグム=相似性、サンタグム=隣接性、パラディグムのサンタグム化、ことなり、ことわり、一致としての真理、あるもの、あるということ、孤独な心的生活、現在の生、自己への現前、意味、純粋自我、他者性、他性、デリダ・ハイデッガー:シニフィアン>シニフィエ、フッサール・西洋伝統:シニフィエ>シニフィアン、言葉の意味のアプリオリ、言葉の成立根拠。 単語を列挙していかなければ、途中で置いていかれてしまいそうに感じられたのでせっせと単語を綴る。思想や哲学を読む際に思うのは、その単語を関連付けて説明出来るならばそれでその思想内容や哲学内容を理解したといっても過言ではないのかもしれないということである。本著では基本的にはフロイト+ソシュールというラカン的な足取りに立ち、フッサールを批判するデリダや、あるいはそれまでの西欧哲学全般に攻撃を仕掛けるハイデッガーを持ち上げることで、より真理なるものの確信に迫ろうとしている。ハイデッガー風に言えば、存在するものより「存在していること自体」について考察するべきであり、デリダ風に言えば、純粋なる意味を持ちうる現在あるいは現前の自我といったよくわからぬ観念を提唱し真理を説明しようとする前に、そうした言葉自体が成立している根拠のようなもの=土壌について考察するべきであるといった結論へと著者は思想を展開させている。フロイト、フッサール、ハイデッガー、ソシュールを基軸としていかにラカンやデリダの思想が出現する余地があったのかについてかなりの説得力を持って本論は展開されており、専門用語に疎くても辛うじてついていける構成となっているのにあまり売れていないようなのは少し残念である。著者自身は<ことなり>と<ことわり>といった二つの概念を提唱している。これはことわりといった自明的なルールがあることによって我々は他者と自己を区別しているのであり、ことわりが崩れた瞬間に精神病理者のように世界があやふやとなって自他の境界すらもうすれてしまうといったことがまず一つであり、ことわりが安定していることによってことなり=言=異=異なった言葉が成立する、ということである。ことなりにおいては意味=シニフィエは場面場面によって変化しうる二次的なものであり、他方で音節、分節、あるいはそれを超えうるものであるシニフィアンこそがことなりの第一義的な性格を有している。シニフィアンなしにはシニフィエは成立する余地がないし、シニフィアンがなければもはやありとあるものが理解不能となってしまう。つまり、運動失語となってしまった人はカタコト言葉を話し、この際に一見シニフィエのみによって言葉が話されているように思われるが、実はここにはシニフィアンが介在しているのである。なぜならば、音による類似性にはシニフィアンが必要であるし、音節、分節こそがシニフィアンである以上、シニフィアンなしには言語が成立しえないといったより根本的な規則があるからである。

Posted byブクログ