存在と無のはざまで の商品レビュー
ハイデガーによりつつハイデガーを超えていったデリダの思想のインパクトを受けて書かれた研究書。ハイデガーのディスクール分析を通して、彼の哲学的思索の内にひそむ形而上学を析出している。 著者がまず分析の対象に取り上げるのは、『存在と時間』のディスクールだ。現存在は日常性の中でみずか...
ハイデガーによりつつハイデガーを超えていったデリダの思想のインパクトを受けて書かれた研究書。ハイデガーのディスクール分析を通して、彼の哲学的思索の内にひそむ形而上学を析出している。 著者がまず分析の対象に取り上げるのは、『存在と時間』のディスクールだ。現存在は日常性の中でみずからが「死への存在」であることを隠蔽していることを、ハイデガーは指摘する。だが、まさにそのような仕方で現存在が死に直面しているということが明らかとなり、それを跳躍板とすることで、本来的実存への企投の可能性が開示される。現存在は、みずからが「死への存在」としてこの世界の内に投げ入れられているという「負い目」を引き受けることで、はじめてみずからの存在の可能性を本来的に開示することができる。だがここには、「実存の理念の企投」が「企投された実存の理念」と一致するという、奇妙な構造が見られると著者は指摘する。これは、被投的企投というあり方をしている実存の「自己同一」なのではないだろうか。そうだとすれば、ニーチェの「力への意志」が形而上学の完成だというハイデガーの批判は、ハイデガー自身に向けられなければならないはずではないだろうか。 ハイデガーは、実存論的分析を手引きとした『存在と時間』の挫折とそれに続くいわゆる「転回」を経て、いわゆる後期思想を展開するが、ここにも同じ問題が引き継がれていることを著者は指摘している。ハイデガーは、もはや現存在の本来的な実存が存在を開示するとは考えず、存在の呼び声に聴き従うことで、「存在の守り手」と成る、といわれる。彼の思索の企投が存在の歴史の展開を引き起こすのではなく、存在の性起そのものが、思索の展開を引き起こすのである。だが、存在の呼び声に聞き従うということを跳躍板にすることで、思索する者は「存在の守り手」というあるべき位置に立ち返るという構造は、みずからの被投性を本来的な仕方でに引き受けることで「自分自身に成る」ことではないのかと、著者は問いかける。 以上のような著者の分析は、きわめて透徹した議論を通じて、ハイデガーのディスクールの構造を解明したものといってよいだろう。だが他方で、こうした議論は哲学にいったい何をもたらすのだろうかということを考えさせられる。デリダが『散種』や『弔鐘』でパフォーマティヴな言説へと移行したことに典型的に示されているように、哲学は啓発的な営みに行き着かざるをえないのだろうか。それとも、べつの思索の可能性がありうるのだろうか。
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