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新・木綿以前のこと の商品レビュー

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2020/05/29

養蚕は弥生時代から行われていた。苧麻は特に、東日本や東山、北陸で生産されていた。律令国家が成立し、租庸調の税制が実施されると、東国の調・庸の中心は布(麻織物)、絹、綿(真綿)だった。布の織製は、秋から冬にかけて織り続けても3~4反程度だったと推測される。麻は木綿の10倍はかかると...

養蚕は弥生時代から行われていた。苧麻は特に、東日本や東山、北陸で生産されていた。律令国家が成立し、租庸調の税制が実施されると、東国の調・庸の中心は布(麻織物)、絹、綿(真綿)だった。布の織製は、秋から冬にかけて織り続けても3~4反程度だったと推測される。麻は木綿の10倍はかかるといった発言も聞かれた。 木綿の栽培と綿布の生産は、宋時代末期には江南に及んだが、明の洪武帝が栽培を奨励したことで、14世紀末から15世紀初めに本格的に発展した。 14世紀末に李朝が成立すると、遣使をそのまま受け入れる外交方針をとったため、中国・九州地方の大名・国人たちは頻繁に赴いた。木綿は兵衣としてこれに勝るものはないと考えられ、15世紀初めには、銅・鉄を輸出し、綿布を得るようになった。 江戸時代以前に、九州から関東までおそらくほとんどの地域で木綿栽培・木綿織は展開していた。江戸時代には、近畿地方が最も高度な綿作地帯となり、大坂には17世紀前半に問屋組織が成立した。三河では、矢作川中・下流域で発展し、平坂湊から江戸向けに積み出された。 木綿はまず軍需品として用いられ、火縄にもよいとされた。帆布にも用いられ、主力が櫓櫂から帆走に移行し、船足が速くなり、船も大型化した。1630年頃には、庶民にとっても入手しやすい日常衣料となっていた。 木綿は、栽培から織布までの全工程を通して分業しやすく、経済性に優れ、関連する周辺分野にも刺激を与えた。栽培には干鰯や油糟などの肥料を多量に必要で、労働集約型の小農経営に適していた。染料としての藍が阿波で発展し、九十九里浜の干鰯は、木綿や藍の栽培の肥料として大坂に送られることで、廻船業も発展し、日本経済史において中世から近世への転換の役割を果たした。 苧麻は、江戸時代になっても夏の衣料、武家の礼服、蚊帳、綱の材料として用いられた。中世後期には、越後で生産された青苧がならで織布・加工され、奈良晒として高い評価を得た。江戸時代に入ると、米沢、山形、会津などでの生産が盛んになり、越後の地位は低下した。 農家の灯油として室町時代から荏胡麻が使われ始め、江戸時代には菜種に代わった。 明治になると、綿業は輸出振興の中心的産業として位置づけられ、各地に官営工場が設置された。しかし、明治19年に企業勃興期に入ると、資本家たちはインド・中国の輸入綿を原料とするようになり、明治29年に議会が輸入関税を撤廃を決議すると、国内の綿作は消滅した。

Posted byブクログ