神のかよい路 の商品レビュー
・後藤総一郎「神のかよい路 天竜水系の世界観」(淡交社)は新刊ではない。ヤフオクで落札した。それも私 一人の入札ではなく、他にも1人か2人の入札があつた。やはり「遠山物語」があるのかと思つたりしたものだが、同時に、この地域の民俗、 あるいは民俗芸能に対する興味があるのかと思つたり...
・後藤総一郎「神のかよい路 天竜水系の世界観」(淡交社)は新刊ではない。ヤフオクで落札した。それも私 一人の入札ではなく、他にも1人か2人の入札があつた。やはり「遠山物語」があるのかと思つたりしたものだが、同時に、この地域の民俗、 あるいは民俗芸能に対する興味があるのかと思つたりもした。この手の書だと読みたい人はゐるのであらう。「この仕事を引き請けてしまったのは、この機会に、断片としてこれまでわたしのなかに貯えられてきた天竜水系の精神史なり世界観を、あらためてトータルにトレースしておきたいという、内なる強い欲求があったこと」(「あとがき」237頁)とある。ならば「遠山」の後藤総一郎だと思つて読み始めた。 ・まづ感じたのは、この人はあくまでも冷静であるといふことであつた。学者だから感情にとらはれてはいけないのであらう。それでも覚めてゐる。ほとんど興奮した書き方はない。おまつりの様子を書く時、自らを書かずに同行の編集、カメラマ ン氏のことを書く。例えば大鹿村の地芝居、「一時の虚構のいわゆる演劇空間の素朴な原風景に出会った同行のカメラマンと編集者の二人は終始言葉もなく、ただ芝居と酒に酔いしれていた。」(153頁)事実さうかもしれないが、ここはやはり自らを書くべきところであると思ふ。 ただ逆に、大鹿村の演し物の「半分以上は(中略)いわゆる『源平』物 もしくは『鎌倉』物であり、なかんずく源氏の悲運を主題とした『勧善懲悪』の倫理観をベースとした演し 物であり云々」(159頁)といふ指摘は、言はれてみればその通りである。このあたりは冷静な分析が物を言つてゐる。ただ、私の個人的な経験からすると、(全国の)地芝居 の演し物のかなりの部分は源平物である。しかもかなり固定化されてゐるから、必ずしも源氏の落人伝説が必要とは思へないのだが、実際はどうなのであらう。あるいは、新野の盆踊り、これを「千から二千の大輪の踊りへと成熟させ持続させることができたのも、柳田国男の“折紙つき”の紹介と指導があったからだ」(147頁)と説明するのは正しい。しかしこれを強調しすぎるのは、個人的には違和感がある。柳田 の力は大きいが地元の人達がゐたからこその盆踊りである。例の「能登」についても、「新盆の灯籠の群れに立ちはだからように、くりかえしとりかこみ、逝ってしまう新精霊に、なごりを惜しみ、唄い踊る」(同前)と書く。これではあの場の雰囲気は伝はらない。まして「単調でもの哀しいメロディーと唄と踊りは、祖霊を慰め、新精霊へのなごりつきない感情を伝へていて云々」と いふのが「能登」への言だとしたら、これも違ふやうな気がする。「単調でもの哀しいメロディー」といふのはかういふ場合の決り文句であらう。伴奏無しで歌ふ盆踊り、これだけでさうなる。これは新野だけのものではない。天龍水系の県境域の大半が、現在行はれてゐれば、伴奏なしの盆踊りである。これらは感じ方と、そこに育つた人間か否かの問題かもしれない。遠山に育てば新野は町であらう。私とは違ふ感覚でゐるのかもしれない。ここまできてふと思ふのだが、副題は「天竜水系の」とある。天龍ではないのである。最近はこの天竜をあまり見ない。天龍村も天竜村ではない。後藤総一郎がかう書いてゐるのだから、たぶん以前は天竜が一般的だつたのであらう。所謂常用漢字の問題である。芥川も龍之介である。竜にしたくないと最近は思はれてゐるのであらう。少なくとも地元では天龍村であり天龍川である。その天龍川、現在はダムで寸断されてゐる(57〜58頁)。そんなことも考へながら読んだ。おもしろいが気になる書ではあつた。
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