石と光の思想 の商品レビュー
森鷗外が『舞姫』を書き、小泉八雲が『怪談』を書いた、まさにその仕方で饗庭孝男は『石と光の思想』を書いた。エキゾチズムがもたらすある種の孤独は、往々にして文人の思索を未知へと解放してきた。 饗庭孝男の蒼白く無垢な感性は、パリの孤独の渦中にあって、視界を覆うように広がる石の群と、苛...
森鷗外が『舞姫』を書き、小泉八雲が『怪談』を書いた、まさにその仕方で饗庭孝男は『石と光の思想』を書いた。エキゾチズムがもたらすある種の孤独は、往々にして文人の思索を未知へと解放してきた。 饗庭孝男の蒼白く無垢な感性は、パリの孤独の渦中にあって、視界を覆うように広がる石の群と、苛烈に降り注ぐスパイシーな日光に感応した。ここに描かれるのは石と光の王国に迷い込んだ樹木と暗がりの民が、その双眸に宿した光景の緻密極まるデッサンである。 本書は饗庭がパリに留学した際に書かれた雑文集という体裁を採っているが、その体験から彼が抽出し、分析し、表現するのは、ただ視覚的要素に限られている。彼にとってのパリは、例えばバルトにとっての日本のように、まさに『表徴の帝国』だったのである。 饗庭の筆先は、対象の表面を撫でるような慎重さで描出してゆく。それが人であれば彼らと交わした取り沙汰の如何より、むしろその表情や所作を、それが景色であれば音や香りを捨象し去った純粋な光線の反射だけを、彼は恍惚と語る。ここで彼の思索を支えるのは、そういった、いわば漂白された視覚である。 「人間という有機体が、石の、無機質の文明に囲まれて、光の刺激に晒されながら、どのように生きるのか」 儚い悲哀を湛えながら、饗庭の思惟はこの問いの内部を逡巡する。そこで生まれ出ずる言葉は、詩的で、充実していて、まったくとろけるほどに美しいのだ。ここで披露されている洗練された美文調は、詩人論を基調に日本近代詩を論じた『神なき詩の神学』で奥義に至る。 現代にあって饗庭孝男の名は広く知られているとは言い難い。しかし、彼を知ることは、即ち文藝における一つの美を獲得することである。
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