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田辺哲学研究 の商品レビュー

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2012/12/09

田辺元の哲学についての研究書。とくに『懺悔道としての哲学』以降の宗教哲学が詳しく検討している。 『懺悔道としての哲学』の中で田辺は、親鸞の他力念仏門の思想の解釈を手がかりに、絶対無の転換作用を論じている。阿弥陀如来はいっさいの相対的限定を絶した「無碍光」であり、「絶対無」と言い...

田辺元の哲学についての研究書。とくに『懺悔道としての哲学』以降の宗教哲学が詳しく検討している。 『懺悔道としての哲学』の中で田辺は、親鸞の他力念仏門の思想の解釈を手がかりに、絶対無の転換作用を論じている。阿弥陀如来はいっさいの相対的限定を絶した「無碍光」であり、「絶対無」と言い換えることができる。この如来は、本願の大悲として衆生の存立を許容し、その根源悪を救済・摂取するのであるが、しかしこの救済は、衆生相互の愛他的な教化活動を媒介にしておこなわれる。じっさい田辺は、懺悔道の境地への往相廻向がみずからに対して開かれてきたのは、親鸞という先進の教化・指導という還相廻向のおかげだと考えている。田辺はこうした往相・還相の二種廻向論を、相対者の先進から後進へ受け継がれてゆく社会的実践論に接続されることになる。 さらに田辺は、『実存と愛と実践』および『キリスト教の辯證』を執筆し、宗教哲学的な社会的実践論をキリスト教の福音信仰の中に見いだした。すなわち、福音における社会的実践は、「神の愛」がイエスの死と復活の実存として確立され、そのことに対する報恩としての「神に対する愛」と「隣人愛」によって、信徒たちによる協働が成立するのである。 その後の田辺の思索は、ハイデガー哲学との対決をおこなった論文「生の存在学か死の弁証法か」や「メメントモリ」などに代表される、最晩年の「死の哲学」へと突き進むことになる。西谷啓治や辻村公一といったいわゆる京都学派の流れを引く哲学者は、最晩年の田辺に見られる禅への傾倒を、西田哲学への接近として捉えてきたが、著者は西田哲学を宗教哲学の基準とする見方を退け、あくまで田辺哲学自身の内的必然性にしたがって最晩年の思想を理解しようと試みる。田辺は、ひとまずは倫理的な生の次元に身を置いた上で、みずからのうちなる根源悪の発見によって「懺悔」に至ると考えていた。だが、みずからが「悪」をなすことは不可避だという自覚が徹底されるならば、倫理的な生を通路とする必要はない。むしろ、倫理的な試練の中に身を置きえない愚者凡夫の日常性こそが、絶対転換の機縁になると考えるべきだろう。それゆえ、田辺にとっては禅もまた「他力宗教」だったと、著者は述べている。

Posted byブクログ