小説から遠く離れて の商品レビュー
聞き覚えのあるタイトルだったので購入。 時々こう言うのが読みたくなるけど硬そう。全く理解できないのは悔しいので、取り上げられてるタイトルを3、4冊読んでから、読むことにしたら、パスするはずの丸谷才一が図書館の都合で最初に来るし、気乗りしなかった中上健次にはまるし、結局、事前の準...
聞き覚えのあるタイトルだったので購入。 時々こう言うのが読みたくなるけど硬そう。全く理解できないのは悔しいので、取り上げられてるタイトルを3、4冊読んでから、読むことにしたら、パスするはずの丸谷才一が図書館の都合で最初に来るし、気乗りしなかった中上健次にはまるし、結局、事前の準備読んだのは以下。 井上ひさし 「吉里吉里人」 丸谷才一 「裏声で歌へ君が代」 村上春樹 「羊をめぐる冒険」 中上健次 「枯木灘」「岬」他 村上龍 「コインロッカー・ベイビーズ」 大江健三郎 「同時代ゲーム」 寄り道、遠すぎ。 で、肝心の当書。 関連があるとは思えないリストだったのに意外な視点で関連が見えてくる。 なるほど、こういう読み方をするのかと、納得も感心もしました。 けれど、ひとつの読み取り方を設定して当てはめていけば、かなりの物語を強引に同じ読みに落ち着けることができるのではないかとも思う。 とはいえ、読み方の勉強になりましたし、リストの半分はこういうきっかけがなかったら手に取らなかった本です。 感謝。
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「物語の型」からはみ出して「言葉の暴走」が起こるのが「小説」であり、その型に収まってしまうものは小説ではないという事らしい。蓮實さんの批評を読むのはほぼ初めてで、あとがきには「小説を擁護したい」と書いてあるがとても悲観的な見方をする人だなぁという印象。この本は20年以上前に書かれ...
「物語の型」からはみ出して「言葉の暴走」が起こるのが「小説」であり、その型に収まってしまうものは小説ではないという事らしい。蓮實さんの批評を読むのはほぼ初めてで、あとがきには「小説を擁護したい」と書いてあるがとても悲観的な見方をする人だなぁという印象。この本は20年以上前に書かれたもので、現在は当時の蓮實が危惧していた方向へまっすぐ進行しているにもかかわずそんなことはもう誰も話題にしていない。
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蓮實重彦の本は読んでおかないとと思いつつこれまで読んだことがなかったので、古本屋で安売りされているのを見つけて購入。 説話論的な分析によって小説の物語を抽出するっていう手法が面白かった。この本を読むまで現代文学を毛嫌いして、近代文学ばかり読んでいたけれど、現代文学からでも面白い問...
蓮實重彦の本は読んでおかないとと思いつつこれまで読んだことがなかったので、古本屋で安売りされているのを見つけて購入。 説話論的な分析によって小説の物語を抽出するっていう手法が面白かった。この本を読むまで現代文学を毛嫌いして、近代文学ばかり読んでいたけれど、現代文学からでも面白い問題提起ができるのだと知れたことがよかった。現代文学への偏見が少しなくなったように思う。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
どうしてもはすみんのを読み終わった時ってはすみん的修辞法を用いて内容をまとめたくなってしまうのだけど、それって単純によくわかっていないだけなのよね、ということで今回はその誘惑に抗って書いてみる。 はすみんはここで、80年代に書かれたいくつかの小説、それも井上ひさし、村上春樹、丸谷才一、村上龍、中上健次、大江健三郎といった日本を代表するような純文学フィールドの作者が書いた小説を取り上げ、それぞれまったく関連性を持たないにも関わらず、そのどれもが同じことを繰り返しているように見えることを指摘する。 たとえば文学というのは、一見同一のことの繰り返しに見えても、個人の語りによって、無数の語り方ができるもので、そこにこそ価値があると考えられる、そういう意見がある。これは別に突飛でもなんでもない、現代では当たり前の考え方の一つではあるけれども、その語り方の差異というものが、果たして根本から差異足り得るのか、問題はそこにある。で、それが一見差異であるかのように見えても、物語の磁場を脱し得ていないのであれば、つまり物語に小説が従属するという力関係が見出せるのであれば、その語り方は結局小説としてというよりは、物語としての機能に留まるものとなる。 はすみんはここで、井上ひさし、村上春樹、丸谷才一をこの類に属する作家だとする。彼らの語り方はそれぞれに独特ではあるけれども、それは物語に対して同一方向の変化しか与えず、だから物語というものの機能性はまるで失われていない。彼らの独特の語り方はその機能に対して同方向にしか働き得ないのであって、そこでの力関係は物語>小説となってしまう。 これに対して、中上健次や大江健三郎はどうかというと、彼らの語り方は、勿論物語になぞるということから逃れることは原理的に不可能でありつつも、そこに重ねられる言葉はもはや物語の機能性に対して貢献しようとはしない。むしろ、物語をなぞりつつもそれを否定するような運動がそこには見られるのであって、それこそが小説が小説らしくあるための条件であるのだ。中上健次は『枯木灘』で秋幸に起源のない私生児でありたいと望ませる。父の血を受け継ぐことなく、しかし父の想像する神話的な一族の流れに接続されたものとして、存在したいと願わせる。そしてそれはそのまま小説のあり方と重なるのだ。異端の私生児として、父を持ちながら父を持たないことを望む小説。それは物語として生産されることではなく、小説として交通されることを望む。交通ということは、コミュニケーションということであり、それによってのみ、共有された物語の土台を揺るがし、物語というものに対して小説が優位性を保つことを可能にする――それは本質的に不可能な運動であるかもしれないけれど、物語の類型が無数に記録され、いずれ語りなおされることを不可能とする時代が到来することが見えている今、やはり求められるべき一つのあり方なんじゃないか。まあそんなところとして理解しました。 物語の類型、なんて言葉そのものがどうしようもなく廃れて、類型と戯れる、とかそんなとこまで行き着いている今、果たして著者の掲げるような「小説」から遠く離れた小説が消費され得るのか、とは誰もが思うことでありながら、ただその消費のうちに小説の自由さが失われていることにまで、不感症になってしまえばそれは単純に勿体無い。自由な小説はどこまでも自由であり続けるべきだしそう信じて書かれる場所がなければ。理想論だとしてもちょっぴり元気付けられる一冊だったという感じはします。ただ、ひたすらだるそうに悪罵を盛り込んで続いていく文体は、感じる精神的疲労も半端なものではないから、用法には注意が必要。よっぽど共鳴しそう、という予感がある人以外はむしろ読まないのが吉かもです。
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